よきわざか、それともキリストに対する信仰

クリスチャンをその魂のふるさとである天国に導くのは、よきわざか、それともキリストに対する信仰かということをめぐって、人はじつにさまざまな議論をしてきました。・・・この問題は私には、鋏の二枚の刃のうち、どっちが必要かというのと同じたぐいの無意味な問いのように思われるのです。キリストに対して敗北をいさぎよく認めて己を委ねることにしても、真剣な道徳的努力を重ねたあげくに初めて可能になるのでしょうし、キリストに対する信仰があってこそ、その時点で人は絶望から救われるのです。そしてまたその信仰から必然的に、よきわざが生まれてくるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、117f頁

2019年3月23日(土)

救いは、信仰によるのか、行いによるのか。これは無意味な問いである、とルイスは語ります。

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ3・28)
「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3・31)
「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3・24)
「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(ヤコブ2・24)