あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らない

静まりの時

  • テーマ:目を覚ましている
  • 聖書箇所:マタイ24・36~44
  • 日付:2026年09月29日(火)

36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
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42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
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44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

再臨の日、主が再び来られる日、この世界の終わりの日、最後の審判の時。その日、その時を私たちは知りません。聖書は天使も、子、すなわち主イエスも知らない、と語ります。

知らないということは、「目を覚ましている」「用心している」という生き方を生み出します。知らないということは、なにか劣っているという印象を持ちますが、知らないということは、恵みなのです。

もし知っていたら、それまでは再臨はないということですので、私たちは備えることをしません。それまでは眠っていても平気です。放蕩や深酒、生活の思い煩いで日々を怠惰に過ごしてしまいます(ルカ21・34~)。

この「用心していなさい」という言葉ですが、原文では、準備している、用意のできている、覚悟している、という意味です。用心せよ、と言われると、何かその時が恐ろしい時で、できるだけその日が来ないほうが良い、といった印象を受けてしまうこともあるかもしれません。しかし主が来られることは、主にある者にとっては、待ち望むこと、です。新共同訳や共同訳で訳されているように「用意していなさい」がよいのではないかと思います。(新改訳には変なバイアスがかかっているような訳が散見されて、この聖書だけを読んでいてはちょっと心配になります)

私たちはその日その時がいつであるのかをしならいのですから、恐怖心をもって用心しているのではなく、喜びをもって待ち望みつつ日々準備しています。