いつも目を覚まして祈っていなさい

静まりの時

  • テーマ:目を覚ましている
  • 聖書箇所:ルカ21・34~36
  • 日付:2026年09月28日(月)

34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。
36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

「目を覚まして祈っていなさい」。祈りとは目を覚ますことです。

祈りの目的はさまざまですが、ここでは「その日」、すなわち主の再臨、あるいは世の終わりに備えるためです。主の再臨、世の終わりは「必ず起こること」です。

健やかな信仰生活はこの「その日」に備えることで生まれます。

そうでないと「放蕩」「深酒」「生活のおも煩い」で、心が押しつぶされてしまうのです。心が押しつぶされているならば、その日は「罠」となります。罠とは広辞苑では「他人を陥れるための謀略」とありました。突然に足を取られる、という感じです。心が押しつぶされていて、心には他のものが入る余裕がなくなっています。「その日」を想定することができなくなっています。しかし必ずやって来ます。また突然にやって来ます。ですから、その日を想定していない者にとっては、その日は「罠」になってしまうのだと思います。

しかし私たちは主の再臨を信じています。世の終わり、最後の審判を信じています。ですから罠ではなく、喜びの時、としてその日を待ち望んでいます。

目を覚ましてい祈るのは、この待ち望みの喜びを確かにするためです。戦々兢々として恐怖して待っているのではありません。いまか、いまかと待ち望んでいます。

「今か今かと御足の音に、耳を澄ましてこの身は待てり
 来り給え贖い主よ、慕いまつる栄えの主よ」(新聖歌150、聖歌628)