誰かを愛しているかのように振舞っていると、本心から愛するようになります。虫の好かない人の気持を傷つけているうちに、その人がもっと嫌いになり、逆に誰かの役に立つようなことをしようと心掛けているうちに、相手がそれほど嫌いでなくなっているということがあるものなのです。
ただしこれには一つ、例外があります。他人に親切にするにあたって、神を喜ばせ愛の律法に従うためでなく、自分がいかに気のいい人間であるかを見せつけて貸しをつくるためだとしたら、そして相手が感謝の言葉を述べるのを座して待つとしたら、あなたはきっと失望するでしょう。・・・しかし相手がただ自分と同じように神によって創造された人間であるがゆえに彼に対してよいことをし、彼の幸せを願うならば、私たちはおそらくまえっよりももう少しよけいに彼を愛するようになり、嫌悪感もしだいに薄れることでしょう。
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人間の神に対する愛について、人はしばしば悩みます。・・・ただ、腕をこまぬいて座って、そうした感情を無理につくりだそうとしても無理でしょう。自分自身にこう問うのです。「神を愛していると確信している人間はどう行動するだろうか?」 そしてその答えが見つかったら、すぐさまそのように実行するのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、115ff頁
2019年3月22日(金)
愛することを感情の発露としてのみとらえるとすれば、人間が善あればそう大きな問題はないと思います。しかし人間は罪びとなのですから、感情の発露を愛としてしまうと、その愛はかなり問題を含んだ愛である、と言わなければなりません。
愛は感情であるとともに意志でもあります。自立した自らが自由の中で選択するということです。結婚式での誓いは、まさにこの意志が問われます。
意志であれば、練習が必要かもしれません。あるいは習慣が必要かもしれません。修練と言ってもいいかもしれません。
礼拝をささげることをせずに、神を愛しているというのは偽りでしょう。愛すべき家族に心に愛があるからといって愛の行動をとろうとしないというのは結局のところ愛していないのです。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」(マタイ22・37-40)
「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ローマ14・15)