他人の罪を赦す場合にも、<赦す>ということは<容赦する>ことと同意義ではないのです。
・・・
容赦できる事情のある罪を大目に見るのは、クリスチャンの愛の行為ではありません。それは単なる公正です。クリスチャンであるということは容赦しがたい罪を赦すことです。神は現に、あなたのうちの容赦しがたい罪を赦して下さっているのですから。
これはむずかしいことです。たった一度、大きな傷手をこうむったときに赦すのは、大してむずかしいことではないかもしれません。しかし、日常の、たえまのない挑発を赦すこと―姑の気儘な干渉を、夫の横暴を、妻の口うるささを、娘の自分勝手を、息子の欺瞞を、赦しつづけること―どうしてそんなことができるでしょう。
それは、自分自身の状況を思い起こすことによって、できるのです。また毎晩、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と心から祈ることによってできるのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、88ff頁
2019年3月1日(金)
神さまからの赦しを確かに頂くことと、隣人の罪を赦すこととは、深くつながっています。そして人生の祝福と深くつながっています。
「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18・22)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6・37)