しかし実際のところ道徳は、人間という機械を正しく運転するための説明書のようなものです。道徳の規則はことごとく、人間という機械の故障や余計な緊張や摩擦を防ぐためにあるのです。だからそうした規則ははじめのうちは、私たちの自然の傾向にたえず干渉しているように見えます。
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人間という機械が故障を起こす場合が二つあります。一つは人間同士がたがいに遊離している場合、そうでなくても騙しあったり、いじめあったりして、相手に危害をおよぼす場合。もう一つは、当人自身のうちで故障が起こる場合―彼を構成しているさまざまな部分(能力とか、欲求とか)が互いに遊離したり、衝突したりする場合です。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、90f頁
2019年3月2日(土)
バイクに乗りたいと思い、昨年(2018年)の夏に近くの自動車教習所に通い免許を取得しました。風を切って走る姿に自由を感じたからです。バイクは自動車ほどかさばらないし、維持費も安く済むだろうということもありました。しかし実際にバイクに乗るようになって、さまざまな「自由にしてはならないこと」に出会いました。あるいは「このようにしなければならない」ということを教えられました。そのようなルールに逆らって、あるいはルールを無視して運転しようとすると、とたんに転倒したり、交通妨害をしたり、バイク自身を痛めてしまったりするのです。けれどもそのような教えられたルールに従って運転するならば、風を切って走る自由さを満喫することが出来ます。
信仰に生きようとするときに出会う「道徳」「教理」「信仰生活上の規則」も、本当に自由な人生を生きるために大切なもの、不可欠なものなのです。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」(ヘブル12・11,12)