マルコの福音書10章46-52節に盲人の物乞いをしていたバルテマイという人物が登場します。主イエスさまとの出会いで癒されました。
このバルテマイ。バルというのは子どもという意味です。ですからバルテマイというのは固有名詞でありながらもテマイの子という意味を表しています。しかしマルコの福音書は丁寧に「テマイの子のバルテマイ」と紹介しています。福音書は教会が第2世代、つまり主イエスさまを直接に知らない人々の時代を迎えた時期にそういう人々のために向かって書かれたといわれます。ですから「テマイの子のバルテマイ」と丁寧に書くのは、これから話すバルテマイという盲人の物乞いであった人はテマイさんの息子のバルテマイなんですよ、と詳しく説明しているということです。おそらくこれを聞いた人は、ああ、あのテマイさんの息子さんのバルテマイさんですか、とピンときたことでしょう。テマイさんはマルコの福音書の最初の読者にとってよく知った人物であった、あるいはその会衆の中にいたということかもしれません。あるいはその一族が集っていたということかもしれません。
もしそういうことであれば、このテマイ一族は教会が第2世代を迎えた時にはキリスト者一族となっていたということでしょう。もしかしたらテマイ一族は多くの人々がキリスト者となって教会に集っていた、教会を支えていたということかもしれません。
そうするとこのマルコの福音書10章46-52節に書かれていることは、キリスト者テマイ一族がどのようにしてキリスト者になったのか。この一家にどのようにして福音が入ったのか、ということを記していることになります。どのようにして福音がこの一族に入ったのか。それは盲人で物乞いをしていたバルテマイからだったということになります。盲人で物乞いをするしかなかったバルテマイ。しかしそこから神さまの祝福が入ってきたのです。この一族にしてみれば、自分たちがどのようにして神さまの祝福に生きるようになったのか、それはひとりの盲人の物乞いから始まったのだ、ということを忘れなかったということでしょう。
盲人で物乞いのバルテマイは一族にとってどのような存在だったでしょう。もしかしたら困った存在であったのかもしれません。しかしそこから神さまの祝福が始まったのです。私たちにも困ったものがあるでしょうか。そこから神さまの祝福が始まるかもしれません。
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