「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。 フィリピの信徒への手紙2章4節

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〔フィリピの信徒への手紙のキリスト賛歌〕
2015年4月21日(火)

各人は自分の「島」にいるだけでなく、みな「自分の玉座」にいるのです。
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この玉座から降りることが、平和への道であります、すなわち、他人の事に目を向けることです。
・・・
それゆえ私たちは他者の事柄を見るべきであり、私たちの山小屋から出て他者の小屋へと誘い出されるべきです―そこが聖地だからなどではなく、ただ人びとのこの出会い、物事を共通に見ることに私や彼より偉大な方の下で一緒に身を屈めることにおいて、本当に聖なる、真実の、進んで援助してくださる方が私の視界に入ってこられるのです。まず私が他者の事をみることで、私自身を本当に見るのです。異質な考えを考えることで自らの考えを考えることを学ぶのです。自由を与えることで、私は自由です。聞き従うことで、自分の支配を行います。常に同胞は遮断の壁ですが、門でもあります。門のそばを通り過ぎる道はないのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、231f。

「同胞は遮断の壁」です。私が思いのままに自由に生きようとすることを遮断します。自由に生きるためには、この遮断の壁を打ちこわさなければならないと、人間は考えます。しかしそうして平和は破壊され、不自由な人生が始まります。
本当に自由な人は、他者に目を向けます。そこに遮断の壁があるのですが、そこで自分自身に自由を与えます。他者に聞き従う道を選択する自由を持ちます。そうして自分自身を支配します。自分の思いのままに生きることは、自分の思いの奴隷です。しかし自由な人は、自分の思いを制して、聞き従う道を選択することができるのです。

そうして自分自身を本当に見る者となり、異質な考えを考えることで、自分自身の考えを考えることを学びます。思いのままに生きているときは、自分自身の考えを考えることをしませんでした。しかし神さまを見上げる者は、異質な考えを考えることで、自分自身の考えを考えることを学ぶのです。

結局、自分の思いのままに生きている人は、自分の玉座に居続けているので、裸の王様なのです。神さまを信じる者は、裸の王様から救い出された者です。

(祈り)

神さま、自分の玉座から降りることができるように助けてください。

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