〔フィリピの信徒への手紙のキリスト賛歌〕
2015年4月20日(月)恵みを信じるということは具体的には、他者を自分より上に置くことです。同胞は恵みの担い手、代表者であり、それゆえ私に対して「上司」であります。
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恵みは私たちの周りにいる人びとの生活、努力、希望、認識、感心事という形で私たちに歩み寄ります。異質なもの、別のもの、私には判らない同胞の主観性は、その一つなるものが私と出会う時の衣服です。同胞が私に課す要求、すなわち私の忍耐、注意、顧慮、愛を求める要求は、この一つなるものの要求であります。私があのかなたから聞き取る、混乱していて、さまざまに好感の持てない、私の主観性には非常に逆行する声は、一つなるものの声であります。
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抽象的な謙虚は最大の高慢でありえます。
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パウロは、「同胞」を「上司」として私たちの前に置くことで、一つの思いにならせています。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、229f。
思いを一つにすることは、周りの人びとの考え方を自分の考えに合わせることによって、成すのではありません。
思いを一つにすることは、自分の考えを変えることによって、成すのです。
自分の考えを変えることのないところに身を置いていては、思いを一つにすることの意味は分かりません。
幸い私たちの周りには、自分の考えと違う人々がたくさんおられます。神さまによって置かれているのです。
その人たちが、自分と違う意見を言ってくれること、自分の主観性に逆行することを言ってくれるとき、思いを一つにするということの意味を学ぶことができます。そこで自分を変えるのか、それとも同胞を変えようと的外れな正義感に生きるのか。それが分かれ道です。
具体的な生活の中で、さまざまな違いの中に身を置き、自分を変えていくところに、神さまの恵みを学ぶ者とされる道があります。
(祈り)
神さま、具体的な生活の中に恵みを学ぶために、同胞を上司とすることができるように助けてください。
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