〔イエスのご受難の前にある人間〕
2015年4月5日(日)イエスは神を逆さまの鏡では見ず、顔と顔を合わせて見ていました。イエスにとって神はだから恐ろしいものではなく、喜びでした、善行は強制ではなく、自由でした。愛はねばならぬことではなく、許可、意志、行為でした。
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イエスはまさにその大きな告発の下に立ち、私たちが置かれ、溜め息をついている律法と怒りの暗い影の只中に立ち入ってこられました。イエスは義なる人びとをして自らを「罪人」として見捨てさせ、追放させ、裁かせました。しかも一瞬たりとも、槍で人びとに対して反撃なさらなかった、私たちならそうするでしょうに! イエスは罵られたのに、罵ることをなさらなかった、私たちならそうするし、そうせずにはいないでしょう―神は私たちにとってそれほどに異質だからです。
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イエスは神から離れず、正当な叱責や抗議と判決の状況へは入りこまず、最後まで一切を神からだけ期待し、自らが代行しなければならなかった神の力と愛から、告発という影の国の只中に、新しい領域を、生きて働く神の領域を創られました。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、191ff。
イエスさまはこの地に「新しい領域」を創ってくださいました。喜びと自由、愛、ゆるしの領域を創って下さいました。私たちは信仰によってその新しい領域に生きることができます。
かつてはこの新しい領域に生きることができませんでした。そもそもイエスさまがこの地に来てくださり十字架と復活によるあがないのみわざを成してくださるまで、この新しい領域は存在していませんでした。いまこのイエスさまが、イエスさまだけが創ることのできた新しい領域に私たちは生きることができるのです。
恐怖、裁き、反撃、罵りから解放され、喜び、自由、愛、ゆるしに生きることができるのです。
(祈り)
神さま、十字架と復活のみわざを感謝します。新しい領域に生きるようにしてくださり感謝します。
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