〔イエスのご受難の前にある人間〕
2015年4月4日(土)一体、この「わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書」は実際はどこに由来するのでしょうか。神から! と私たちは考えます。
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私たちは悔い改めます―するとひどく気難しい者になり、他の人びとは遠く離れていきます。いわゆる真理を言おうと試みる―すると私たちの声はかすれて金切り声を上げて響くので、みんな逃げ去ります。
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― 神は私たちに良き意志を持つ自由を贈って下さった。私たちはそれを道徳の強制とした。
― 神は言われた、生きよ! 私たちは翻訳した、教会と牧師、校長、党〔バルタイ〕と警察!
― 神は考えた、喜べ、と! 私たちが考えたのは厳しい真剣さ、人は有能であればあるほど、ますます真剣になる。
神は言われた、力を! 私たちが理解したのは、熱心さ、不安、興奮、忙しい言葉と動きと。神は言われた、愛! 私たちが理解したのは、お互いの生活を台無しにする不快な押し合いへし合い。
このように私たちは神の考えを常に間違って理解してきました。・・・私たちを告発で苦しめるのは神です、けれども決して神ご自身ではなく、むしろ私たちが持ち続けてきた神への間違った記憶であるに過ぎません。一切を逆さまに歪んで映す鏡があるように、私たちは神を全ての思想、諸原則と諸習慣という間違った鏡の中に見ます、それらは道徳、キリスト教、宗教、人生の厳しさと名付けられ、しかもそれらは私たち自身から、私たちが神になじみのないことから出ているに過ぎません。
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私たちが熱心に真剣になればなるほど―神はおられなくなり、神を理解することがますます少なくなり、神からますます遠ざかります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、189ff。
「神への間違った記憶」によって信仰生活、教会生活を生きてはいないか、と。もしそうであれば、まことの神さまにお出会いしなければなりません。「私たちの熱心さ」「真剣さ」が、この間違った記憶によるものであるならば、まことの神さまにお出会いして、取り除いていただかなければなりません。そうして神さまにある「熱心さ」「真剣さ」につくりかえていただかなければなりません。
神さまにある熱心さ、真剣さとは。・・・
(祈り)
神さま、あなたへの間違った記憶から解放してください。そうして真にあなたにお出会いさせてください。
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