〔磔刑〕
2015年4月6日(月)この人の生と死においてゴルゴタの丘であの三つの十字架の真中で神の業として生じたのは、目に見えないことです。すなわち、この和解―この男の人の永劫の罰において私たちの無罪判決を、彼の敗北において私たちの勝利を、彼の苦しみにおいて私たちの喜びの始まりを、彼の死において私たちの命の誕生を、なのです。そしてそれが、この人を十字架にかけた人びとが成し遂げたことでした。彼らは事実、自ら何をなしたか知らず、自らの悪い意志と行為でもって善を実行するのにまさに打ってつけの者たちでした。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、198f。
十字架上でイエスさまは死なれました。十字架の立てられたゴルゴタの丘には、イエスさまの十字架のほかに二本の十字架が立てられました。その二本の十字架にはそれぞれ二人の犯罪人がかけられました。イエスさまは二人の犯罪人と共に十字架刑で死なれたのです。そうしてイエスさまは二人の犯罪人と死の直前の数時間、共に過ごされました。二人の犯罪人は、イエスさまと共に過ごしながら死に向かっていくことになりました。イエスさまが二人の犯罪人の中におられたとともに、二人の犯罪人がイエスさまとともにいたのです。弟子たちはみな十字架を前に逃げました。それに対してこの二人の犯罪人は自分たちの意志とはかかわりなくイエスさまとともにいることになったのです。彼らがイエスさまとともにいることになった理由は、罪人であった、ということです。彼らは自分たちの罪のために告発され裁判において判決を受け十字架刑が言い渡されたのです。それで自分たちは全く望まなかったのですが、結果的にイエスさまとともにいるようになったのです。バルトはここに最初のキリスト共同体がある、と言います。つまり最初の教会があると言うのです。
イエスさまとともにいる人間は、罪人です。あるいは自分が罪びとであるということを明らかにした(された)人間です。これは今も昔も変わりません。
さて、こうしてイエスさまと二人の犯罪人は十字架につけられました。刑を執行したローマ兵、その判決を下したピラト、十字架につけるように仕組んだユダヤの宗教指導者たち、それに先導された群衆、ゲッセマネで祈られるイエスさまを前に眠りこけた弟子たち、十字架につけられるイエスさまを見捨てた弟子たち、いずれもみなイエスさまの十字架への道を整えていきました。彼ら全てが、自分たちが何をしているか知らなかったのです。神の子を殺しているということを。そして何よりもそれによって自分たちの、そして全人類の救いの道を築いていることを。
それはただ神さまだけが、そしてイエスさまだけがご存知でした。
私たちはこの神さまの御業によって救われています。
(祈り)
神さま、私は自分が何をしているのかわかりません。しかしあなたはご存知です。そのあなたがともにいてくださることを感謝します。
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