イエスと共に十字架に架けられた、最初の者たちと後の者たち

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〔磔刑〕
2015年4月7日(火)

イエスと共に十字架に架けられた犯罪者たちの名は知られていません。
・・・唯一知られているのは、彼らが有罪の判決を下され、今、彼らの一人が自らについて言っているように、「我々は、自分のやったことの報いを受けている」(ルカ23章41節)ことです。しかしその全体を超えて、彼らはその意志もなくその意思に反して、実に彼イエスと共に十字架に架けられたということを私たちは知っています。それ以前も以降も、イエスにおいて生じた和解という神の行為に、神の栄光に、世の救済に、この二人のようにこれほど直接、これほどすぐ近くにいた者は誰一人いませんでした!

・・・

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」―そう使徒パウロは書いています(ロマ6章8節)。さて、この両名は文字通りキリストと共に死んだ。すなわち、彼らも文字通りキリストと共に生きるだろうと、そう彼らに約束され、そう知ることを許されたのです。犯罪人である人びとが、イエスと共に苦しみ死ぬことを許されているそこにあって有効な約束は、キリスト教会の基礎をなし、この人びとをキリスト者にします。そして彼ら、この二人は、イエスと共に苦しみ死ぬことを許されたことで、この約束によりキリスト教会に集められた最初の者たちでした。
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この約束は十字架に架けられた犯罪者にのみ発せられる、神の前と同胞の前に全く不正であり、それゆえ望みもなく終わり、それに対して自分からは進んで抵抗できない人びとにのみ発せられます。彼らのためにイエスは死んだのです。私たち全てが本当にこのような人びと、十字架に架けられた犯罪者です。そこで、本来的に重要なことはただ一つ、私たちはこのような人びとに与えられた約束を聞くために、後ろに続く者であることを承諾するか否かであります。

「神は傲慢な者に抵抗されるが、謙虚な者に恵みを与えられる」。恵みを受け、恵みを得るのは、自らについてあまりに高くなく、さればといってあまり過小評価しないで勇敢に後ろに続く人びとであります。ゴルゴタのあの二人の犯罪者が最初の者であったあのところで。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、199ff。

神さまから恵みをいただくことのできる「謙虚な者」とはいったいどのような人びとのことをいうのでしょうか。それは「自らについてあまりに高くなく、さればといってあまり過小評価しないで勇敢に後ろに続く人びと」のことである、とバルトは語ります。

行いではなく信仰によって救われると聖書は語るのですが、いつの間に教会は、信仰という名の「行い」によって救われる、と語ってしまっているのではないかと感じるときがあります。

真実に「信仰によって救われる」ということは、この二人の犯罪人のように、彼らの意志、意思によらず、ただ不思議な神さまの導きの中でイエスさまとともに自分の十字架を負っている人びとの中に実現します。この二人の犯罪人の後に、自分が続くかどうか、それが分かれ道のようです。

(祈り)

神さま、この二人の犯罪人の後に続かせてください。自らの十字架を負う者とならせてください。あなたと共に自らの十字架を負う者とならせてください。

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