ダビデ族出身のユダ

執筆者:

カテゴリ:

〔ユダ〕
2015年3月25日(水)

イエスに対して、何かより良いもののためにおのが自由を守ろうとする男、ユダとは何者か。その者にとってイエスは売物であり、従ってイエスを提供し、引き渡すことができ、結局たしかに引き渡してしまった男とは。彼はその名をどう見ても無益に担っているのではありません。・・・使徒集団の中で、ダビデと、今や約束されたダビデの子が生まれ出た一族「ユダヤ人」を代表しています。
・・・
最初に聞かれるのは、イエスが最高法院で裁かれ、ピラトに引き渡されるのを見た時、ユダは自分の行いの結果を「後悔した」ということです。実はユダ自身としては、実際あの最初の小さな歩みをしようとしただけで、自らの引き起こしたこの結果は欲しませんでした。
・・・
ユダのこの後悔、この告白とこの償いの試みを、真剣に取らないという理由はありません。そもそも何がここで完全な悔い改めに欠けているのでしょうか。後に正しい悔い改めの本質として書かれた一切がそこにはあります。
・・・
「彼の」行いにおいて、使徒集団もこの見捨てる行いの共犯なのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、171ff。

使徒の一人であるユダ、神の民を代表するユダ、人類を代表するユダが、イエスさまを引き渡しました。引き渡した結果、イエスさまは十字架にかかられることとなりました。自分の行為が、思いがけない結果を生み出しました。望んでいない結果を生み出しました。ユダは後悔しました。

後悔と悔い改めは似て非なるものです。後悔はどこまで行っても人間の業です。しかし悔い改めは、神さまの御業です。後悔はどこまで行っても、主軸を自分自身においています。しかし悔い改めは自分自身を神さまの御手の中に委ねています。後悔は自分で自分の行為の始末をつけなければなりません。しかし悔い改めは自分の行為の始末も神さまに委ねています。神さま抜きの後悔の先にあるのは滅びです。しかし悔い改めの先には新しい出発があります。

私たちもユダでした。しかし悔い改めて新しく出発する者です。

(祈り)

神さま、悔い改めに生かしてください。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA