〔ユダ〕
2015年3月26日(木)ユダには使徒として、教会における将来性はありません。・・・ユダは教会では過去でしかありません。そしてユダと共にユダ族もそうです、ダビデの子を異邦人に引き渡したあのユダ族も、エルサレムも。「欲しなかった」あのエルサレムも。このユダ族とエルサレムは、別のある人に席を譲るために、ただ滅びて消え去るしかありません。
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マタイによる福音書によるとこの裁きには自己判決という独特の形式があります。ユダは、かつてサウルがしたように(サムエル上31章)、自分の手で死にます。それは明らかに、イエスに対立する自由な決定と処分というユダが選んだ一直線です。―ユダをその引き渡しへ導いたと同一線上のもの―それがユダを今、その悔い改めを退けた後、まさにこの終わり、他ならぬ自殺へと追いつめたのです。ユダは以前から自らの審判者であろうとしなかったでしょうか。今この締めくくりの形で、自らの死においても審判者であります。
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さらに恐ろしいことにユダは、事実イエスの死において生じ、イエスの復活において明らかになったこの世と神との和解のこちら側に自分がいて動いているということを、認めることができないでしょう。ユダが自分の行いに基づいてたしかに陥った神の裁きをも、神の自由な恵みとして受け取り、従って神の手から期待するつもりはなく、神の裁きをも自らの手に取り、自分の身において成就しようとします。思い上がった、以前の一切の犯罪行為の頂点とされる自己判決のこの光の中で、マタイは明らかにユダの最後に相応する「エルサレムの没落」、ユダヤ国家と宗教の本質全体の没落をも見ていました。すなわち、イスラエルは己が救い主を殺すことで、己が存在全体への神の裁きが避け難くなったばかりでなく、自らに忠実であり続けようとして、遂には自殺せざるをえない途上にありました。
これが、ローマ人に対する蜂起において、特にローマ皇帝ティトウスに対するエルサレムの防衛において西暦70年についになされたことであります。エルサレムがもはや生き延びることができなかったことで、エルサレムは―最後の大祭司の最期についての報告を考えると―自覚と意思を持って自らに死を与えました、死はこのようなものとしてその罪に対する償いではなく、罪の最期の完成でしかありえなかったのです。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、173f。
自らを死に追いやるユダ。それは最後まで自分の審判者であろうとしたことによります。神さまの方向を向くという悔い改めを拒み、どこまでも自分が、神のように自分を審き、人を審き、世界を審こうとするならば、滅ぼしてしまうしかないのです。自分の義を自分で成り立たせようとするならば、罪人である人間はみな、滅びに向かうしかないのです。
罪や過ちの全て、自分のやらかしたことの全て、を自分で解決するのではなく、神さまの御手の中に委ねましょう。神さまの解決に委ねましょう。神さまが最善をなしてくださいます。そこに生きる道が開かれます。
(祈り)
神さま、自らが神のように審き主になろうとする罪から解放してください。
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