〔ユダ〕
2015年3月27日(金)パウロこそは、使徒言行録のはっきりと描いている形像に従えば、12人のところへ初めて加わってきて、しかもあの極めて不愉快な経歴にもかかわらず、イエスの復活と新約聖書により報告されなかったその死との間の時間において、12人の一人ではなく、まさに使徒でした。
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ユダは実に、十字架にかかった強盗たちのように、彼ら以上に、自らの行いに相応するもの、つまり罪の報酬としての死を受けます。・・・死においても不従順な、死のおいてもなお自分自身を自分の審判者だと主張する者の死を死ぬのです。
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ユダの「排斥」はイエス・キリストが負った排斥です。パウロの選びはまずユダの選びです。パウロなくしてユダはユダではないでしょう。同様にユダなくしてパウロもパウロではないでしょう。しかし、ここで支配しつつ、二人の到達し難い力強い原形として中央に立っておられる方がイエス・キリストであるなら、その時は選ばれた者と見捨てられた者との間の状況を作り出すことができないならば、見捨てられた者もそれを破壊することは出来ません。
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見捨てられた者のところに、いつも日か神のイエス・キリストにおいて行われる不思議な逆転があって、一人の選ばれた者が代って立つだろうという以外のことは、いかなる見捨てられた者に関しても期待も想像もされないのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、174ff。
神さまに敵対したというのならば、ユダ以上にパウロはそうでした。
罪を犯したかどうか、神さまに敵対していたかどうかが一番の問題であるというのではありません。自らの罪に気づいたときに、その罪に対して、あるいは罪を犯す自分に対して、そして罪を指摘する神さまに対して、どういう態度をとるかが大切な問題です。
ユダとパウロの違いはそこにあるのだと思います。
しかしいずれにせよ、この状況をご支配なさっているのは神さまご自身ですから、自分が審判者のようにふるまうのではなく、ただ神さまの御手の中に委ねればいいのだと思います。
(祈り)
神さま、罪びとである私を赦してください。すべてのことをあなたに委ねます。
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