〔ゲツセマネの園にて〕
2015年3月16日(月)イエスが引き受けられた贖罪と義の成就は、今その完成直前にあります。裁き手が裁かれる者になるという展開は、今や成就されようとしています。
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いかし、今やまさにこの記述は、もう一度事柄のおよそ不可解な「厳しさ」全体に注意を向けさせています。すなわち、人の子は天から来て神により送られた王、罪人たちのてにある審判官であるが、罪人たちの手に落ち、裏切られ、彼らに売られ、このような罪人として彼らに渡されて、晒し者にされたのです!
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今や一切はこの厳かな瞬間に、十分に理解でしますが、だがすべて先立つ出来事の後ではやはり再び全く予期もなく不整合にも、「食い止める(ストップ)を見るに至るのであります。
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「もし可能なら、この時を過ぎ去らせてください」。ヨルダン川からここへのイエスの全道程は、サタンによっても―ペトロの姿でも(マタイ16章23節「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」)!―食い止められぬこの時間へと歩み入る唯一の道ではなかったでしょうか
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そして今立ちすくむのです・・・神ご自身の懐で、父と子の間の関係において食い止め、ためらいを見るに至った瞬間、今や食い止めがたく、全ての先立つ出来事の後から神の必然性をもって現実になろうとしているものとは別のことが可能ではないか、という問いかけを見るに至った瞬間なのでありましょうか。・・・まさに「死に至るまでの」悲しみ、心痛、圧迫について語られています。
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人びとが、今喜んで勇敢に血の洗礼を受け、命の冠を摑もうとするのを見たい、としていた殉教者の誇りはまったく欠けて、ありません! それどころか、かつてソクラテスが自分の杯を飲んだ際に持ったとされる朗らかな冷静さは、全くもう語ることもできません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、155ff。
イエスさまが十字架にかかってくださったという事実によって私は救われました。神さまはいのちを捨てるほどに尊い存在であると神さま自らが語り行動してくださったのです。
この十字架にかかるためにこの地にイエスさまは来られました。そしてそのことをイエスさまは確信しておられました。そしてまた、イエスさまが十字架ののち三日目によみがえられるということ、そのことを誰よりも正確にイエスさまご自身は知っておられました。
そのイエスさまが十字架を前に、十字架を取り除けてください、と父なる神さまに祈っておられるのです。
ゲツセマネの園の祈りは、私にとって長く不可解な祈りでした。
しかし今この人間的には弱々しい姿の中に、まさに私の傍らに立ち続けていてくださる神さまのお姿を見ます。もし「朗らかな冷静さ」をもって「自分の杯」(毒杯)を飲んだソクラテスのような姿であれば、私とは何の関係もありません。イエスさまは、私の弱さも、醜さも、すべてご自分のものとして十字架で磔にしてくださったのです。私はこのゲツセマネの園の祈りの後に十字架にかかられたイエスさまによって救われました。
(祈り)
神さま、あなたは、もっとも貧しい姿になって、私をも包み込む激しい貧しさの中にご自身の身を置いてくださり、私を救ってくださいました。ただ感謝します。
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