〔ゲツセマネの園にて〕
2015年3月17日(火)この記事の描写によれば、イエスがその苦悩と死において予見さなったにちがいない特別に恐ろしいものとはいったい何なのでしょうか。
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イエスは、その際孤独であるばかりでなく、人びと「すべてを敵にまわさ」なければならないのを見たのです。・・・皆互いに多かれ少なかれ試練と誘惑者の権威の組み合わされた道具として存在し、行動し、イエスに対して、ただまさにサタンの意志と支配に仕えてのみ活動できたのです。
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イエスはこの世をあるがままにご覧になりました。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、157f。
イエスさまが、ゲツセマネの園で経験された苦しみとはいったい何なのか。それは「すべてを敵にまわさなければならない」のを見たのだとバルトは語ります。十字架の苦しみは、愛し愛される中にあった人びとを敵にまわさなければならないという苦しみなのです。
いろいろな苦しみの中に放り込まれるとき、それでも自分の味方となってくれる人が一人でもいるならばどんなに心強いことでしょう。しかしイエスさまが十字架で経験してくださったのは、誰一人自分の味方となってくれる人がいないという苦しみでした。
私たちも、誰一人私の見方はいないのではないか、というところに放り込まれることがあります。しかしその苦しみをイエスさまは誰よりもよく知っていてくださいます。そしてそば近くにともにいてくださいます。
(祈り)
神さま、どんなところにもともにいてくださることを感謝します。
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