〔誘惑〕
2014年3月17日(月)
「主ご自身、試練を受けて苦しんだからこそ、試みを受けている者たちを助けることができるのである。」(へブル2:18)
イエス・キリストの受けた誘惑によって、アダムの受けた誘惑の決着がつけられた。アダムの受けた誘惑においては、すべての肉(人間)が没落したが、イエス・キリストの受けた誘惑においては、すべての肉がサタンの力から奪い返された。
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サタンは、神の子を堕落させることができなかったので、今度は、神の子を堕落させるために、その肢々を、あらゆる誘惑をもって迫害しようとする。しかし、現に存在するこれらの誘惑は、地上においてイエスが受けた誘惑の余燼にすぎない。
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キリストがかつて受けた誘惑にあずかることが、私の今受けている誘惑の唯一の助けであるということが語られているのである。それゆえ、われわれは、自分がいま受ける誘惑を、イエス・キリストが受けた誘惑として理解しなければならない。なぜなら、イエス・キリストが受けた誘惑の中にだけ、私の助けがあるからである。そこにだけ勝利があるのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、135頁f。
いま受けている試練は人の知らないものではない、とコリントの手紙の中でパウロは語りました。この「人」とは他者ということですが、何よりもイエスさまご自身であることを思います。
いま受けている試練はかつてイエスさまがしっかりと受けてくださった試練の「余燼」であると受け止めたいと思います。ですからどのような試練の中にあっても大丈夫です。
(祈り)
神さま、いま受けている試練はすでにあなたが経験してくださった試練です。感謝します。
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