静まりの時 ヘブル10・32~26
日付:2024年02月19日(月)
32 あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。
33 嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。
34 あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。
35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。
36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。
「あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。」(32)
教会へ通い出した日、聖書を読み始めた日、信仰をいただいた日、洗礼を受けた日。その初めの日々を思い起こしなさい、と聖書は語ります。「光に照らされた」、すなわち暗闇から光に移された喜びの日を思い起こしなさい、ということだけではなく、その後にであった「苦難と厳しい戦いに耐えた」日々でもあった、その日を思い起こしなさい、と語ります。
喜びの時を思い返すことはとても大切です。その日々をイエスさまが与えて下さったことを感謝します。それとともに、試練の時を思い返すことも大切です。その日々をイエスさまが支え励ましてくださったことを忘れてはいけません。
苦しみの日々とはどのようなものであったのか。
「嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。」(33,34)
信仰の戦いというと、異教の世界にあって、自分の信じた信仰を守るための戦いをまずは想像します。人は異質なもの、自分と違ったものに出会うと恐れます。それによって、変化が予想されるもの、自分が「これが正しい」と信じて来たものを変えなければならない事態を想像して警戒します。キリスト教の葬儀をするということで、いろいろな反対を受ける、村の行事が信仰に関わる部分を持っている場合に、それが聖書の語る信仰と相対する場合に参加を躊躇する、それに対して冷たい言葉や態度をされたり・・・。聖書の神さまを信じることのない方々からの迫害は、誰しも大なり小なり経験することです。
聖書に書かれているキリスト者が受けた迫害は、その多くがユダヤ人からのものでした。神さまを信じていない方からの迫害ではなく、神さまを信じている人たちからの迫害。
同じ神さまを信じているのにも関わらずどうして迫害が起こったのか。
ただ単純に神さまを信じているということだけでは迫害はされません。初代のキリスト者が迫害を受けたのは、それがイエスさまを救い主とする信仰だったからです。旧約聖書においてご自身を現された神さまが、新約聖書においていはイエスさまによってご自身を明らかにされた。イエスさまこそまことの神である。まことの神さまが人間の罪の為にご自身をいのちを献げられた。その神さまが、今度は甦られた。いまも生きておられる。天において私たちをとりなしていてくださる。そのイエスさまへの信仰が、同じ神さまを信じているはずのユダヤ人たちからの迫害を招いたのです。
ユダヤ人たちはなぜイエスさまを信じるキリスト者を迫害したのか。しなければいられなかったのか。単に嫌うとか、冷たい態度をとるといったことではなく、投獄する、さらには命まで奪うような迫害に出たのか。
神さまが、自分の思うイメージでご自身を現しておられる段にはよいのだが、自分の考えや主張するところとは違った姿でご自身を現されたとき、私たちは一様に、それを警戒し、恐れるのだと思います。イエスさまの弟子となった人びとの中にも、最初からイエスさまを受け入れたわけではなく、むしろパウロのように迫害をした人もいました。パウロは、キリスト者を迫害することを、正しいこと、と考えていました。神さまのためであると考えていたのです。
ちょっとまずいことをしているのかな、と自分に自信を持てないでいる時は、その迫害の手も緩む可能性をもっている。しかし自分は正しいことをしていると思い込んでいるときは、なかなか歯止めがききません。
キリスト者は、そのような迫害にさらされてきたのだと思います。
ヘブル書は、そのような迫害の中にある人びとに向かって、
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」(35,36)
「あなたがたの確信」。「確信」と訳されている言葉は、
1、(話の)あけっぱなしな事、腹蔵のない事、率直さ。
2、公然たる事、公開。
3、(態度・行動における)率直さ、無遠慮、大胆さ。
イ、(人に対し)大胆に、はばかることなく
ロ、(神に対し)全き信頼、確信、喜んで
以上のような意味が辞書に書かれています。
このうち、ヘブル書の今朝の個所は、3のロ の意味で使っているのだと思います。神さまをまっすぐに見上げて、その神さまの前に、全き信頼を置いて、喜んで生きて来た。その喜びを投げ捨ててはいけない、と。
だから忍耐しよう、と勧めます。
さまざまな迫害がありますが、その中にあって、神さまが用意していてくださる「大きな報い」「約束のもの」をいただく道は、ひたすら「忍耐」である、と語ります。
苦しみに耐える忍耐もあると思いますが、ここでは、確信を手放さない、という忍耐。神さまとの豊かな関係に置かれていることの喜びを手放さない。それが祝福への道なのだと思います。