静まりの時 ヨエル2・11~14
日付:2024年02月17日(土)
12 「しかし、今でも──主のことば──
心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、
わたしのもとに帰れ。」
13 衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。
あなたがたの神、主に立ち返れ。
主は情け深く、あわれみ深い。
怒るのに遅く、恵み豊かで、
わざわいを思い直してくださる。
14 もしかすると、主が思い直してあわれみ、
祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。
あなたがたの神、主への
穀物と注ぎのささげ物を。
(12-14)
今からでも遅くない、心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ、衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。そうしてあなたがたの神、主に立ち帰れ、と預言者ヨエルは語りました。
悔い改めるとは、方向変換をすることです。今まで自分中心で歩んできたその方向を180度変換して、これからは神さまの方向を向いて生きていく。
自分の力のみで生きて来た方向を、これからは神さまのお力によって生きていこうとする。今まで自分が自分の義を証明し、義を成り立たせて生きて来たけれども、これからは神さまが立ててくださる義によって生きていく。自己の実現を目標として生きて来たかもしれないが、その方向を変換して神さまの御思いを実現することを人生の目標とする。
口先ではなく、心のすべてをもって方向変換をする。断食を涙と嘆きをもって、主のもとに立ち帰っていく。自らの一部分を反省するのではなく、自らの存在そのものを自分の手から放し、神さまの御手の中にお委ねする。表面的に衣を引き裂くのではなく、心を引き裂く。罪を失敗として言い訳するのではなく、罪を犯さなければ生きられなかった自分の存在自信を神さまの前に懺悔する。
心を引き裂くこと。自分が拠り所としてきた心。これからはその自分の心を最優先するのではなく、神さまのお心を第一にしていく。引き裂き破れた心を、自分で修復するのではなく、神さまの御手の中で癒していただく。神さまだけを、私の心の拠り所とする。
断食とは、このように神さまに立ち帰ること。
主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるお方です。私たちが悔い改めて主に立ち帰るならば、いつでも両手を広げて迎えてくださいます。放蕩息子を迎えた父のように。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
息子は父に言った。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』
こうして彼らは祝宴を始めた。
(ルカ15・18-23)
この弟息子は、父のところに立ち帰りました。この個所には二つの「ところが」という言葉が登場します。
恐る恐る父のもとへ向かった息子。「ところが」、父は「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」のです。
弟息子が父に向かって準備した謝罪の言葉を語ろうとします。父に語ろうとして準備した言葉は、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」でしたが、「ところが」実際に語ったのは、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません」。父は息子のことばを最後まで語らせません。
弟息子が「雇い人の一人にしてください」と語る前に、父は語り始めます。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい・・・」。
砕けて言うと、こういうことです。
息子:「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」
父:「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」
息子:「お父さん、私のことばにはもう少し先があるのです。最後まで語らせてください」
父:「ごちゃごちゃいうな。さあ、上がった上がった、宴会だ!」
神さまは私たちが心の底からご自身のもとに立ち帰ることを、今か今かと待っていて下さり、いざ立ち帰ろうとするならば、それを無限の愛をもって受け止め包み込んでくださいます。
もしかすると、主が思い直してあわれみ、
祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。
あなたがたの神、主への
穀物と注ぎのささげ物を。(14)
共同訳2018では
主が翻って思い直され
その後、祝福を残し
あなたがたの神、主に献げる穀物の供え物と
注ぎの供え物を残されることはないと
誰が知ろう。
新共同訳では
あるいは、主が思い直され
その後に祝福を残し
あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を
残してくださるかもしれない。
立ち帰る者への神さまの祝福とは、主に献げる穀物の供え物、ぶどう酒の供え物を残してくださること。祝福とは、主への献げ物がある、ということです。自分の生活が豊かになることも、平和に暮らしているということも祝福かもしれませんが、何よりも、主への献げ物をいただいている、ということが祝福なのです。
献げ物を主に献げることは、主との豊かな交わりをいただくことです。人間である私たちの祝福とは、自分を造った神さまとの豊かな交わりそのものなのです。父なる神さまは、私たちとの交わりを、何よりも求めておられ、それをご自身の最優先の喜びとされます。私たちが立派な奉仕を献げることも喜びとされますが、何よりも礼拝においてご自身交わりを喜びとされます。一週間の始まりに、礼拝を献げる恵みにあずかります。私たちはその時を待ち望みつつ一週間を送ります。しかしその礼拝の時を誰よりも待ち望んでおられるのは父なる神さまご自身です。
教会に向かう私たちを、まだ到着する前から神さまは玄関前に立って迎えようとしていて下さいます。そうして、さあ入った入った、ともに礼拝の恵みあずかろうと招き入れてくださるのです。
伝統的な教会では、礼拝堂の入り口に「洗礼盤」が置いてありますが、入堂の際、悔い改める者を迎える父なる神さまの愛が、そこに明らかにされているようです。