静まりの時 ルカ18・9~14
日付:2024年02月16日(金)
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(9-14)
自分は正しいと確信していて、ほかの人びとを見下している人たち。
自分は正しいと確信していることと、ほかの人びとを見下すこととは、一見別のことですが、深いところでつながっています。見下しているつもりはないかもしれません。しかし自分「も」正しいと確信しているのではなく、自分「は」正しいと確信していることは、やはり、他の人と自分との間に一線を引いているのです。連帯しないのです。自分を高みに置いていることなのです。
パリサイ人の祈りはこうです。
「奪い取る者でない、不正な者でない、姦淫する者でない。」 このような倫理道徳の規範を守って生きること自体は大切なことです。また「週に二度断食すること、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げていること」といった宗教的生活も大切なことです。いずれも否定する理由は何もありません。むしろ推奨されるべきことでしょう。
しかしこの立派な心の中の祈りに「ほかの人たちのように・・・でないこと」「この取税人のようでないことを感謝します」とあるのを私たちはどう理解すればよいでしょう。
ひとつは謙遜さに欠けると理解してよいかもしれません。確かにこのような立派な生き方があったかもしれませんが、真摯に自分自身を見つめるならば、その動機や心根には不純なものも含まれていたかもしれない。そのように思う謙遜さは必要でしょう。
ただイエスさまがここで教えられたことはそれだけではないと思います。
このパリサイ人は、自らの正しさを明らかにするために、さまざまな宗教的な立派さを数え上げます。しかしそこに「ほかの人のようではない」ということで、その立派さを確かなものとしようとしている。自分を肯定するために、他者を否定する。そういう祈りをこのパリサイ人はささげているのです。
どうしてそのように他者を見下さなければならないのでしょう。自分が神さまの前に喜びと感謝をもって、宗教的な生き方をしているならば、それで十分なのではないでしょうか。どうして他者との比較において、自らの立派さを際立たせなければいられないのでしょう。自分の立派さを数えることが、他者の立派でない部分を数えることによって成り立たせなければならないということは、どういう心の動きがそこに起こっているのでしょう。
結局ところ、自分に自信がないということではないか。自分自身に自信がない、自分を肯定できていない、自分を受け入れられていない、ということが人を見下さなければいられないということの根底にあるのではないか。
人間はみなそのような心を持っていると思います。幼いころから私たちは、他者との比較の中で生かされてきました。自分が秀でていると安心し、そうでないと落ち込んでしまう。そういう風に育てられる。それが教育の名で行わている。向上心を持って努力することは大切なことです。しかし他者を見下すことによってその向上心を生み出しているとすれば、不健康なことですし、何よりも不幸なことです。ともに生きるということをできなくさせてしまいます。
神さまの前に立っても、そのような心から自由になることが出来ないこのパリサイ人は誰よりも不幸なのだと思います。神さまの前に立っても、自分の立派さを自分自身で主張しなければならないことは、不幸なことなのです。
一方、取税人の方は、
「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」
この祈りを生み出しているのは、謙遜でも自己卑下でもなく、神さまへの絶対的な信頼だと思います。神さまの前に謙遜の徳を積み上げる必要はありません。自己卑下する必要もありません。そういったことから一切解放されています。自分がどのような人間であるのかは、神さまはご存じです。その罪びとでしかない私を神さまの御手の中にそっくり委ねている。自分で自分を取り繕うことをしない。それがこの祈りだと思います。
「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です」。
義と認められる。義認は聖書の最大のテーマです。パウロは手紙において次のように語りました。
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」(ローマ3・28)
「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」(ガラテヤ2・16)
「信仰によって」「キリストを信じることによって」義と認められる。
信仰によって。では信仰とは何か。それは神さまへの信頼です。このような罪人さえも愛していてくださる、受け入れてくださるとの絶対的な信頼。それが私たちが義と認められることなのです。
この安心感、平安に押し出されてであるならば、断食も献金も、さまざまな宗教的な生活も私を生かすものとなります。また同時に他者との比較から解放されているのですから、他者と共に生きる道が開かれます。