主のしもべが争ってはいけません

静まりの時 第二テモテ2・22~25
日付:2024年02月09日(金)

22 あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
23 愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。
24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、
25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。

 若いときの情欲を避けること。愚かで無知な議論を避けること。
 逆に、義と信仰と愛と平和を追い求めること。すべての人に優しくすること、よく教えること、よく忍耐すること、反対する人たちを柔和に教え導くこと。
 神さまのしもべであるならば、このように生きることがふさわしい、と語ります。

 この個所には、協会訳系の聖書では「適格者と認められた働き手」と表題が付けられています。働き人が、どのように生きるべきであるのか、その奉仕生活とはどのようでなければならないのか、が語られています。
 しかしそれだけではありません。神さまのしもべとしてふさわしく生きることが、「彼ら」に悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれない、と続きます。
 この「彼ら」とは、18節の「彼らは真理から外れてしまい」と語られている人たちのことであり、さらには「彼らの中には、ヒメナイとピレトがいます」と名指しされる人まで含む異端的なグループのことです。

 彼らは不敬虔になったのです。なぜ不敬虔になったのか。それは「俗悪な無駄話」によってでした。人間はみな罪びとなので、俗悪な無駄話は、悪性の腫物のように広がるのです。俗悪な無駄話は、人びとを不敬虔にします。
 では、この人びとを不敬虔にした俗悪な無駄話とはいったい何であったのか。いろいろと想像が走りますが、聖書はどのように語っているでしょう。

「彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています。」(18)

 復活はすでに起こったと語る信仰。そのような復活に対するゆがんだ信仰が、人びとを不敬虔にした俗悪な無駄話、である。そう聖書は語っています。

 復活はすでに起こった、と語るゆがんだ信仰。それはいったいなんであるのか。

 イエスさまは十字架の死ののち、葬りを経て、復活されました。この復活は「すでに起こった」ことです。ですから、この信仰を指しているのではありません。復活はすでに起こったということが、俗悪な無駄話となってしまうのは、その復活が、「私たちの復活」のことを指している場合だと思います。私たちの復活は、「すでに起こったこと」ではなく、将来において起こる希望です。その将来において起こる希望を、すでに起こったこととしてしまうのが、俗悪な無駄話であり、不敬虔を生み出すものである、というのです。

 キリストの復活という初穂があり、やがて私たちも復活にあずかるという実り、その間に生かされているのが私たちの復活信仰なのです。復活が、将来にある希望である、という信仰が、私たちを敬虔に生かすのです。敬虔に生きるために、このような復活信仰を生きようというのではありません。このような復活信仰に生きることが、おのずと、敬虔な人生を生み出す、というのです。
 どこかに不純物を含む信仰は、不純物を含んだガソリンのようなもので、そのガソリンを使用した自動車は、黒煙を出してまわりを汚染します。悪性の腫物のように隣人を滅ぼしていきます。また同時に自らのエンジンを破壊していきます。敬虔に生きることが出来なくなってしまうのです。

 『雪ノ下カテキズム』復活の項を引用してみましょう。

【問134】 あなたも復活するのですか。

【答】 そうです。主イエスの復活が、肉体は滅びても霊は不滅の姿を現したというのではなくて、からだを持つ甦りであったように、私も復活するのです。ただ単に私の霊が不滅であるというのではないのです。私の全存在が有限のものであったのに、主イエスの復活のいのちに捕らえられて、その主に似て永遠の神との交わりに生きることができるようになったのです。私どもの復活の先駆者、初穂として主が既に甦られたように、私どももいつの日か甦る時がくるのです。死のカに捕らえられてはいないのです。それ故に、死もまた眠りであること、しかも決して永遠の限りではないということを、私は知っているのです。このいのちの信仰に生かされて、私は、地上のいのちの歩みを全存在をもって大切に生きることができるようになったのです。
(加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、1990年発行、221頁f)

 二千年前に歴史の中に起こった主の復活。そしてやがて私も復活にあずかる。この二つの復活の間に生きているのが私たちである。それが清さを生み、いのちにあふれた健やかな人生を生み出すのです。

「主のしもべが争ってはいけません」(24)。

 この「争い」と訳されているギリシャ語は、「マコマイ」という動詞ですが、この単語の名詞形は「マケー」といい「戦い、争い、あつれき」と訳されています。ヤコブ4・1(「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか」)、第二コリント7・5(「外には戦いが、内には恐れがありました」)などに登場します。戦いという言葉が、マケー(負け)と発音するのは、面白いですね。

「主の僕たる者は争わず」(協会訳)、「主の僕は争うべからず」(文語訳)。

 主イエスさまは、律法主義者に対してかなり厳しく語られました。また手紙において使徒たちは、ゆがんだ信仰に対して強く意見を主張し、論争をしています。ですから、争ってはいけない、というは、真理を後回しにして、不正があっても事なかれ主義で行きなさい、ということではないでしょう。

「主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。」(共同訳2018)

 争わないということではありますが、それは何もしないことではなく、「すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません」と続きます。かなり積極的な生き方です。一口にいうと、とにかく愛に生きよ、ということなのだと思います。

 自分の主張を反対されると、自分そのものを否定されたかのように人間は感じてしまいます。そう感じてしまうと、自己弁護をしたくなったり、相手を否定したくなったり、そうして争いに向かってしまいます。しかし神さまは、私たちを一人ひとりを価値ある者であると語っていてくださいます。神さまのこの愛は揺るぐことがありません。胸を張って、ひたすら愛に生きればよいのです。