小さなことのためだけではない

静まりの時 イザヤ49・1~6
日付:2024年02月10日(土)

6 主は言われる。
 「あなたがわたしのしもべであるのは、
 ヤコブの諸部族を立たせ、
 イスラエルのうちの残されている者たちを
 帰らせるという、小さなことのためだけではない。
 わたしはあなたを国々の光とし、
 地の果てにまでわたしの救いを
 もたらす者とする。」

 「主の僕の使命」と協会訳系の聖書には表題が付けられています。「主の僕」は、イザヤ書における一つの重要なテーマです。「主の僕」と言われるとき、それはここではイザヤのことのように思いますが、イザヤ書53章などを見ると「主の僕」と語られるのは、世界の苦しみをその身に負うことによって世界を贖う存在を指しています。

 その主の僕の使命とは、一つは、イスラエル民族に解放をもたらすことです。しかしそれと同時に、それにとどまることなく、全世界の解放、救いを実現する、世界大の使命を担う者となると、ここには語られています。

 イスラエルという特定の民族のためだけではない、そんな「小さなことのため」だけではない、「国々の光」すなわち全世界の光とする。「地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」すなわち全世界への宣教者とする、とイザヤ書は語ります。

「わたしはあなたを国々の光とし、
 地の果てにまでわたしの救いを
 もたらす者とする。」(イザヤ49・6c)

 これは、新約聖書の以下の個所に引用されます。

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、
 しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、
 御民イスラエルの栄光を。」
(ルカ2・28-32)

 シメオンの賛歌。「ヌンク・ディミティス」の中に引用されています。シメオンは幼な子イエスさまをその手に抱いて神さまを賛美したのですが、その言葉は、旧約聖書・イザヤ書からの今朝の言葉でした。主の僕は、まさにイエスさまご自身であることが明らかにされます。
 もう一か所は使徒の働きの以下に引用されています。

47 主が私たちに、こう命じておられるからです。
 『わたしはあなたを異邦人の光とし、
 地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
(使徒13・47)

 これは、アンティオキア(シリア)から派遣されたパウロたちが、その旅の中で語ることになったパウロの説教の一節です。パウロたちがピシディアのアンティオキア(この名が付けられた町はいくつもあるようです)で安息日に礼拝を献げていたところ、その会堂司から突然に奨励を語るように依頼されました。それでパウロが立ち上がって説教をします。それを聞いた人びとは、次の安息日にもお話をしてほしいと依頼します。そうして次の安息日には、ほぼ町中の人たちがやって来ました。それを見たユダヤ人たちは反対し、彼らを口汚くののしります。そのような中で大胆に語られた説教に引用されたのが、この言葉でした。イザヤの言葉がここに成就しました。
 パウロは、自らが主の僕となったのは、異邦人宣教のためである、と語ります。主の僕は、イエスさまご自身であると同時に、イエスさまの福音を語るすべての者にも重なって理解されるようになりました。

 主の僕としての歩みは、その目の前のためだけでなく、それを越えた世界大のために用いられるようになる。主にお仕えするということは、そのしもべの思いをはるかに超えた祝福をもたらす。今は、たいそう小さなことに見えるかもしれない。しかしそれが、世界の救いのために用いられることになる。主に仕えるということは、そういうことなのです。

 恩師の教会がある療養所に伝道していたとき、その伝道の実りとしてひとりのキリスト者が誕生しました。この方はやがて召天されるのですが、その時教会になにがしかの捧げものを残して行かれました。教会は、赤字の一般会計をやりくりしながらの運営です(すみません。ちょっと盛っています)。その捧げものを感謝して受け取ることになったそうですが、恩師の牧師はどうしても一般会計に繰り入れることに躊躇したと言われました。何かこの方の献身の思いに結び付くようなことにならないだろうか、と。それで、そのわずかな捧げものを一般会計に繰り入れず、ひとつの基金として受け取ることにされたそうです。何年もしてですが、その捧げものがもととなって、教会併設の福祉施設を生み出しました。経営の形態はその後変遷したようですが、今もキリストの心によって多くの方の福祉に実を結んでいます。(https://betaniya.jp/betaniya/) 現在理事長として責任を負っておられる先生は、新約学の先生で、神学校では新約釈義を習いました。面白い授業でした。
 自分の残した捧げものが、このような形に実を結ぶことを、療養所で信仰に生きたその方は御存じなかったと思います。主の僕として生きる者は、どのような形であるかは分かりませんが、自分の思いをはるかに超えた業に携わっています。私の小さな働きが、捧げものが、祈りが、その小ささにとどまることがないのです。それが主に仕える、ということなのです。