静まりの時 出エジプト4・10~17
日付:2024年02月08日(木)
10 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
11 主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。
12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。
15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」
エジプトにおいて奴隷の苦しみの中にあるイスラエルの民。神さまはそんなイスラエルの民を解放されます。その指導者としてモーセをお選びになりました。神さまからのモーセに対する召命の言葉が出エジプト3章10節にあります。
「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(10)
新聖歌440番におさめられている「エジプトに住める」(Go down,Moses)は、この言葉をテーマにしています。19世紀、アメリカで作られた黒人霊歌ということですが、奴隷解放、公民権運動においてもよく歌われたようです。
神さまから、モーセよ、行きなさい、との言葉を頂いたモーセ。神さまからの命令ではありますが、愛の神さまですから、強制的な命令というよりも、プロポーズ、提案でしょう。乙女マリアのところに天使がやって来て、おめでとうマリア、といった時のように。
マリアさんは、戸惑いましたが、まもなくその申し出を受け入れました。それに対してモーセは、なかなか受け入れようとしません。
「モーセは神に言った。『私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。』」(3・11)
「モーセは神に言った。『今、私がイスラエルの子らのところに行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。』」(3・13)
「モーセは答えた。『ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、「主はあなたに現れなかった」と言うでしょう。』」(4・1)
「モーセは主に言った。『ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。』」(4・10)
モーセはいろいろと理由をつけて、神さまの申し出を断ろうとします。そんなモーセに対し神さまは丁寧に、忍耐強く答えて行かれました。なんと愛深いお方でしょう。
しかしそれでもモーセは受け入れません。そしてとうとう明確に拒絶します。
「すると彼は言った。
『ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。』」(13)
モーセは、不思議な導きによってヘブル人でありながら王家で育てられることになりました(2章)。豊かな中で、他の王子と共に王としての教育を受けたことでしょう。大人になった時、同胞の苦しみを目の当たりにします。義憤に駆られてでしょうか、ある時、同胞を苦しめるエジプト人を殺害していましました。そこには、何不自由のない環境の中で育てられた人間の未熟さが多分に現れているようです。そのような自らの姿に、モーセはエジプトから逃亡しミディアンにて生活を始めました。逃亡生活はつねに自分が寄留者であることを思い起こさせる平安のないものだったでしょう(2章22節)。
神さまは、奴隷で苦しむイスラエルの民を解放しようとされました。そのために、このモーセを召されました。
かつて殺人も辞さないほどに自信にあふれたモーセは、今、自信のかけらもありません。自分がどんなに自己中心で、貧しく、足りない者であるのかを、痛いほどに知らされています。神さまは、そのようなモーセをご自身のお働きに召されます。そんなモーセを召されるのです。どうかほかの人を遣わしてください、とまで拒むモーセを神さまは召されるのです。
拒み続けるモーセに、とうとう神さまは怒りを向けられます。
「すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。『あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。』」(14)
神さまが、とうとうぶちぎれてしまった、と読むこともできるかもしれませんが、私には、モーセよ、どうか同胞を解放するために立ち上がってくれないか。あなたでなければならないのだ。私はあなたを召したいのだ、もうごちゃごや言わずに、とにかくこの召しに答えてくれ、あとは私が何とかするから、と聞こえてきます。聖なる、愛にあふれた怒りの言葉に聞こえてきます。
こうして神さまに押し切られる形でモーセは、イスラエルの解放者としての働きに向かうこととなりました。この先さまざまな困難が待ち受けています。だからいやだといったのですよ、といいたくなるような事態に直面します。しかし神さまはその都度、モーセを励ました助けられました。その道は、まさにモーセ自身が、神さまとはいかなるお方であるのか、を学ぶ道ともなりました。モーセは最終的に目的地に入ることが出来ませんでした(申命記34層)。しかしモーセについて聖書は次のように語ります。
「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。」(申命記34・10)
もう再び起こらないほどの預言者。それがモーセであった。その素晴らしさとは何であったのか。それは「主が顔と顔を合わせて選び出した」モーセであったこと。すなわち、自信もなく、自分の過去の罪に捕らわれ寄留者のように生活するしかなったモーセを、神さまがその顔と顔を合わせて選び出した人物であった。それが、再びイスラエルには起こらないほどの卓越したモーセであることの理由でした。人間の真価は、賜物や成した偉業によってではなく、神さまの一方的な選びの真実に、どれだけ生きることとなったのかによるのです。そのためには、自分の何かに頼るのではなく、ひたすら神さまに御頼りする者でなければなりません。なまじ自分に自信があると、神さまに御頼りすることが後回しになってしまいます。
召されたときモーセには自らに自信がありませんでした。モーセに必要だったのは、自信ではなく、自信のない自分を用いようとされる神さまに期待し委ねる覚悟だったのだと思います。神さまに期待し委ねる覚悟。それを聖書は信仰と呼ぶのだと思います。
イスラエルを解放する道。それはモーセにとっても、結果的に過去の自分から解放される道となりました。聖書に登場する神さまに用いられた人びと、イエスさまの弟子たちも、ことごとくこのようであったと思います。自信ではなく、信仰に生きた人たち、自らの貧しさを知りつつ、それを用いようとされる神さまの豊かさに賭けた、あるいは委ねた人たちだったのだと思います。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5・3)