静まりの時 第一テモテ6・3~16
日付:2024年02月02日(金)
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
(6-8)
前節まで「敬虔を利得の手段と考える者たち」による問題が語られてきました。「敬虔」すなわち、神さまへの愛の心を、自らの利得の手段と考えること。そのようなことが人間の中に起こってしまう。
しかしそのような敬虔は、人間に真実の利得を与えることがありません。「満ち足りる心を伴う敬虔」こそ、人間に大きな、そして真実な利得を与えるのです。
では「満ち足りる心を伴う敬虔」とは何か。
これに続いて、私たちはこの世に何も持ってこなかった、またこの世から何かを持って出ることもできない。この世のことはこの世で完結する。この世でいくらお金持ちになったとしても、たくさんの名誉を得たとしても、それは永遠の御国とはかかわりがない。つまりこの世では旅人である。そのことをわきまえよう。旅人として、その日を暮らすことが出来たことを喜ぼう、感謝しよう、と語ります。
自分が自力で生きているのではなく、神さまによって生かされていることを喜ぶ、感謝する。そうして今を満ち足りた時として生きる。
この6節は新共同訳では「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」と訳されています。
神さまを愛することが、何か足りないものを埋め合わせをするようになされるのではなく、満ち足りることを知ってなされる。愛を見失い、ぽっかりと開いた心の空虚を埋めるために神さまを愛するのではなく、すでに神さまから無限の愛をいただいている喜びに満たされて神さまを愛する。そのような神さまへの愛こそ、私たちに真実の利得をもたらすのです。それはもう利得をもたらすかどうかなどは考えることなく、ひたすら喜びに満たされて神さまへの礼拝を献げることです。
宗教のあり方を批判的に御利益宗教ということばを使って揶揄することがあると思います。御利益宗教は、敬虔や信心を利益を得るための道具として利用するところに起こります。聖書の語る信仰は、神さまご自身が無限の愛、無条件の愛をお持ちになっておられ、その愛を人間に与えたいと願っておられる神さまのお心がまずあって、その神さまの心に触れた人間が、神さまに向かって感謝を捧げることです。私はこれこそ、本当の御利益だと思います。神さまの愛は、人間が利用するとか、人間が都合の良いように左右するとかいうレベルのものではなく、ナイアガラの滝のように、まさに怒涛の如く圧倒的な力をもって私たちに注がれているのですから。