静まりの時 第一ペテロ1・13~21
日付:2024年02月03日(土)
13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。
(13-16)
「・・・と書いてあるからです」ということが、説得力になる。それがキリスト教信仰です。
理屈にかなっているから、世間がそう言っているから、伝統的にそのように考えてきたから、また自分がそう思うから、そんな気がするから、ということは一切理由になりません。ただ「・・・と書いてある」、すなわち聖書のそのように書いてあるから、そのように生きるのです。
神さまは聖なるお方である、だからあなたがたも聖なる者でなければならない。神さまが聖であるということが了解されている信仰。この世の神々は必ずしも聖であるとは言えないかもしれないが、聖書において明らかにされた神さま、天地を創造され、今もそのすべてを御手の中においておられる神さま。その神さまは聖なるお方である。イエスさまにおいてご自身を現された神さま、今日聖霊なる神さまにおいてご自身のお働きを前進しておられる神さまは、その三位一体の神さまは、聖なるお方である。それが聖書の証言です。
その神さまを信じる者は、同じように聖なる者とならなければならない。あるいは聖なる者となる目標をいただいている。イエスさまを信じる者は一様にその目標をいただいているのです。
聖なる者となる。清い者となる。それは「あなたがたを召された聖なる方に倣」う者となる。神さまに倣う者となる。
神さまに倣う、ということは、神のようになるということですが、全能感を持つことではなく、十字架にまで従われたイエスさまに倣う、ことです。「従順な子どもとな」ることであり、「以前、無知であったときの欲望に従わ」ない者となることです。
無知であった時の欲望に従わない者となる。それが信仰生活であると聖書は語ります。
それはまた「心を引き締め」る生き方であり「身を慎」む生き方です。それは「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望」むことによって生まれます。
待ち望む者こそ、自らの欲望に従わず、神さまのように聖なる者となるのです。
聖なる者となる、ということは、清くされるということではありますが、それは「神さまのものとなる」ということです。神さまの御手の中にあることを確かにする。自分自身の良い部分も悪い部分も神さまの御手の中にあることを信じる。自分のまわりで起こるさまざまなことごとも、神さまの御手の中にあることを信じる。そのような神さまへの信頼が豊かにされていくこと。それが聖なる者となるということなのです。それは、待ち望むという信仰がなければ生まれることはありません。
「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」
再臨において現れるイエスさまの恵みを待ち望む。あるいは、いつもともにいて下さる神さまが、ご自身を明らかにしてくださることを待ち望む。神さまがおられるならばどうしてこのようなことが起こるのか、ということごとの中においても、必ずイエスさまは御自身の恵みを明らかにしてくださることを信じて、その時を待ち望む。そのような待ち望みの生き方が、聖なる者となる道を拓きます。
それは、現状を最終結論とすることから私たちを自由にします。否定的な現実を前にして、それが最終的なものではない、ということを知っている。どんなに困難な中にあっても、かならずイエスさまがその恵みを現してくださると信じている。それが待ち望む者の生き方です。待ち望む者となりましょう。そうして聖い者とされましょう。