静まりの時 ヤコブ4・1~7
日付:2024年02月01日(木)
1 あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。
2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。
3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。
4 節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。
5 それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。
6 神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。
「神は高ぶる者には敵対し、
へりくだった者には恵みを与える。」
7 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
罪とは、まとはずれ、という意味で、神さまというまとをはずしてしまっていること、すなわち自己中心のことである、と教えられます。
神さまを中心にすること、神さまを主とし王とすること。自らはそのしもべとすること。そこに聖書の語る福音的な人生があります。イエスさまはそのような人生に生きるように私たちを招いてくださいました。そのためにイエスさまは十字架に架かり復活されました。
しかしイエスさまを信じてもなお、私たちは自己中心に生きようとしてしまいます。それがここに語られている「世を愛すること」です。
世を愛することとは、自己中心に生きるということなのです。
たとえば、コロサイ2章の終わりに次のような言葉があります。
20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。
(コロサイ2・20-23)
つかむな、味わうな、さわるな、という定めに縛られる生き方を、パウロは「この世に生きているかのような」生き方である、と語りました。一見宗教的な生き方であっても、それが「縛られる」ということであれば、この世的な生き方なのです。この世を愛していることなのです。
「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(3)
自分の快楽のため、というは、自分の自己中心という欲望を満たそうとする快楽のこと。そのために使おうと求めることは「悪い動機」であって、それではいくら求めても得らえることはない。
求めるならば得られる。そのような確かな生き方は、自己中心から解放されて、神さま中心になって求めることがどうしても必要である、と聖書は語ります。
では神さまを中心に求めるとはいったいどういうことであるのか。
「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。
「神は高ぶる者には敵対し、
へりくだった者には恵みを与える。」(5b,6)
神さまは、豊かな恵みを与えてくださるお方である、それは私たちの内にいて下さる聖霊さまを、父なる神さまご自身がねたむほどに慕っておられるからである。三位一体の神さまの愛の中に、私たちは招かれている、その豊かな神さまの交わりのなかに生きるように私たちは招かれている。そこでは、神さまは豊かに与えて下さるお方であることが明らかである。だから私たちが成すべきことは、ひたすら高ぶりを捨てて、神さまの前にへりくだることである。豊かに流れる川があっても、その中に突っ立っている入れ物には水が入ることはない、こうべを下げて豊かな川の流れの中に自分自身をしずめるならば、おのずと全身が豊かな潤いに満たされていくのだ、と。
あらためて1節から読んでみたいと思います。
1 あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。
2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。
3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。
私たちの間に戦いや争いがあるとすれば、それはどこから出てくるのか。その戦いの根本的な原因は「からだの中で戦う欲望」である、といいます。
私たちの周りに戦いがあるとすれば、それは私たちの内にある戦いが原因である。外の起こる戦いと内なる戦いとは深く結びついているのです。
ヘンリ・ナウエンの言葉を引用してみましょう。
私たちが一人ぼっちの寂しさから行動する時、私たちの行動はいとも簡単に暴力的なものになってしまいます。多くの暴力が、愛を求めてのことであるというのは、悲劇です。一人ぼっちの寂しさから愛を探し求める時、口づけは容易に噛みつくことになり、抱擁は殴打となり、心にかけて見ることが疑いの目で見ることになり、聴くことが立ち聞きに、身を任せることが強姦になってしまいます。人間の心は愛を切に求めています、条件や限界、制約のない愛を。しかしどのような人もそのような愛を与えることは出来ません。私たちがそのような愛を求める度に、私たちは暴力の道へと向かってしまうでしょう。
・・・
完全な愛を求めて止むことを知らない私たちの心は、それを創られた御方(おんかた)との交わりを通じてのみ、それを見出すことが出来るということを悟ることから始めなければなりません。
ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
52頁。
からだの中の欲望が、さまざまな戦いを生み出すのだから、その欲望を捨てよ、というのではありません。問題は、それを神さまに求めようとしないことにある。ただ自分の為に求めようとするので、それは決して与えられることがない、なぜならそこで本当に求めているのは、愛だからである。まことの愛をお持ちのお方は神さまだけである、その神さまに求めよう、と語るのだと思います。
「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(7)
悪魔に対抗する、ということは、自らの中にある欲望を捨てよ、と言うことではなく、その私たちの中にある欲望を正しい願いに変えて、神さまに求めていく、ということです。悪魔に対抗する、ということは、神さまはひたすら良いものを豊かに与えて下さるお方であると、神さまに信頼することなのです。自らの願望を殺すことではなく、自らの願いを幼子のようになって、神さまに求めること。そして何よりも神さまご自身の愛を求めることなのです。そうすれば悪魔は逃げ去ってしまいます。怖い顔をして、悪魔よ去れ、などと言わなくても、喜びを感謝をもって生きているならば、そんなところに悪魔はいることができません。