静まりの時 第一ヨハネ1・5~10
日付:2024年01月11日(木)
5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
(5-10)
神さまは光である。神さまには闇が全くない。だから、神さまとの交わりの中に生かされているとすれば、それは光の中を歩んでいるということ。
光の中を歩んでいるにも関わらず、闇の中を歩んでいるということであれば、私たちは偽りを語っている。真理を行っていない。
だから、もし闇の中を歩んでいるようん人生であれば、それはキリスト者とは言えない。それでもキリスト者である、と言うのならば、それは偽りを語っているのであり、真理は私たちの中にはない。そこには矛盾がある。
一見分かったような気持ちになる言葉です。しかし何度も読み込んでいくと、かなり込み入った、あるいは複雑な内容が込められているように思えてきます。
神さまとともに光の中を歩む、ということは、闇の中を歩んでいない、ということです。闇の中を歩んでいない、ということは、罪を犯さない、ということではなく、自分の中に罪がある、罪を犯したことがある、ということが告白される、認められる、ことです(8節、10節)。
罪がない、と言い張るとすれば、それは自分自身を欺いていることです(8節)。そしてそれは同時に、神さまを偽り者とすることです(10節)。
自分の正しさに生きようとする者は、結局神さまを偽り者とすることであり、神さまにもどこか暗いところがある、とすること。神さまを全き光のお方としないこと、なのです。
罪びとである自らがきよめられるのは、自分自身の何かによることではありません。神さまの一方的な恵みによってなされる神さまの御業です。その御業、神さまの奇跡にあずかるためには、自らが罪人である、自らの内に罪があるということを告白する、認めることが必要です。そうして光の中を歩む。光の中を歩めば、その神さまの光によって、自らがきよめられていく。そのような信仰生活を歩みたいと思います。
神さまが罪を告白する私たちを赦し清めてくださるのは、神さまが真実で正しいお方だからです。私たちが真実で正しいので、きよめてやろう、ということではありません。
ですから如何に真実に告白するかどうかが、赦されきよめられることの土台ではありません。私たちの罪の告白はどこまでも不十分です。しかし神さまご自身が真理であり正しいお方なので、私たちの不十分な罪の告白にも関わらず、赦して下さり、きよめてくださるのです。神さまの真実さ、神さまの正しさ、は、神さまが罪びとである私たちの罪を赦すことにおいて最大限に発揮されます。
人間の正しさは、罪を断罪し、汚れを切り捨てることによってなそうとされます。しかし神さまの正しさは、罪を赦し、汚れをきよめるのです。
このように神さまとの交わりの中に生きる、光の中を歩む、ということが、今度は、互いに交わりを保つ(7節)という道を開きます。また互いに交わりを保つだけではなく、御子イエスさまの血によって、すべての罪から私たちをきよめます。
神さまのとの間を断絶させていた罪が取り除かれると、兄弟姉妹の間を断絶させていた罪も取り除かれる。神さまとの交わりが回復すると、兄弟姉妹との交わりもおのずと回復する。あるいは兄弟姉妹との交わりが正常化する、健康なものとなる、ということでしょう。
そうして互いの交わりが正常化されることにおいて、御子イエスさまの罪によるすべての罪からのきよめが実現するのです。
光の中を歩む。罪を告白する。御子の血によって罪が赦されきよめられる。交わりが回復される。これらは、すべて礼拝において、また聖餐式において追体験されます。