静まりの時 ルカ11・33~36
日付:2024年01月10日(水)
33 だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。
34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。
35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。
36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」
(33-36)
光は、他を照らすものです。ですから燭台の上に置くのです。しかしそう語った後に、急に、からだの明かりは目である、との言葉が続きます。ここで、照らす、ということが他者に対して光を照射する、ということではなく、自分自身に対して光を照射する、ということが語られ始めます。
世の光として遣わされる私たちは、同時に、自分自身を照らし出す光としての目をいただいているというのでしょう。自分に光を当てずに、世に向かって光を当てる、ということは、真実に世に向かって光を当てることにならない、ということかもしれません。まず自分自身に光を当てることが可能となってはじめて世に向かっての光となるのです。
目が健やかなら全身の明るくなる、と言われました。この「健やか」という言葉は、共同訳2018では、「澄んでいる」と訳されています。
健やかな目を持っている。澄んでいる目を持っている。その澄んだ目で、自分自身を見つめていく。そうすると全身が明るくなる。しかし逆に、目が悪い、目が濁っている、その濁った眼で自分自身を見るならば、全身が暗くなってしまう。
自分自身に向かっての澄んだ目を頂きたいと思います。私たち罪びとは、その目が曇っているのです。ここで、罪とは、目が曇っている、ということです。自分自身を健やかに、まっすぐに、曇りなく見ることが出来ない。それが罪の中にある、ということです。
主イエスさまにお出会いして、目の曇りを取り除いていただきました。救われる、ということは、健やかな、澄んだ目をいただいた、ということです。
自分、という存在をどのように見るのか。澄んだ目をいただいた今、自分が神さまの御手の中にある大切な存在であることを知りました。神さまの御手の中にある尊い存在であると、自分を見る。それが健やかに、澄んだ目で自分を見る、ということです。
この目の明るさ、をいただいたならば、全身が明るくなります。全身が明るい、ということは、全身が光で満たされている、ということです。”Your whole body also is full of light.” からだ全体が光に包まれる。そんな感じです。
輝いている人がいます。賜物や業績といったもので輝きを発する人もいます。逆に何の賜物もなく業績もいまいち、人生を振り返ってみても後悔ばかり。しかし、それでも輝いている人がいます。それはそういう自分を大切に見つめてあげること、暖かな健やかな目で自分を見ることを知っている人です。自分の良い部分を見てほめてあげようとすることではありません。それは、逆に自分の悪いところが見えればほめることが出来なくなってしまう道を簡単に開きます。
自分を大切に見つめること。それは、自分の欠点や、失敗、そういうマイナスと見えるところも、それが自分自身であり、その自分自身を神さまは命を捧げるほどに愛していてくださる、ということを知って初めて可能となることです。
そういう自分を見る目の健やかさ、澄んだ目を、いただきたいと思います。それが輝いた人となる道へと私たちを導きます。どんなに賜物にあふれ、輝くばかりの業績を成し遂げたとしても、その自分を相変わらず否定的に見ているならば、輝けません。何もなくても、いえ何もないからこそ、その自分が神さまの愛の御手の中にある。大切な存在なのだと見る。それが輝く人です。