あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません

静まりの時 ヨハネ8・12~18
日付:2024年01月12日(金)

12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」
14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。
15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。
(12-15)

 主イエスさまは「世の光」です。イエスさまが世の光なので、イエスさまに従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。そうイエスさまが言われると、パリサイ人たちは反発しました。それは真実ではない。なぜなら、自分自身でそのように証しをしているからだ、と。
 それに対してイエスさまは、確かに自分で証をする、ということはその証しが真実ではないことの証拠である。しかしわたしの場合は違う。わたしの場合は、自分自身で証をしても、それは真実なのだ。なぜなら、わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのだから、と答えられました。

 自らを知る、ということは、私たち人間にとっては、一つのテーマであると思います。私という人間は、いったいどういう存在であるのか。母から生まれたことではあるが、それ以前はいったいどういうことであったのか。生物学的には、細胞の結合と分裂を繰り返しながら今の私に成長したことではありますが、しかし哲学的には、あるいは霊的にはいったいどういうことであったのか。また、こののち何処へ行くのか。死んだらどうなるのか。消えてなくなるのか。それとも魂は永遠なのか。永遠であるとすれば、いったいどこに存在することになるのか。などなど。
 生まれる、ということ。死ぬ、ということ。私たちはそのすべてを解明できているわけではありません。そのような人間は、自分自身を「世の光である」ということはできないでしょう。イエスさまもそういう「人間」である限り、わたしは世の光である、とイエスさまが言われても、私たちはにわかに信じることが出来ません。
 しかし、イエスさまは神ご自身です。そのイエスさまが、わたしがどこからきてどこへ行くのかをわたしは知っている、と言われる。イエスさまは証しが真実であるかどうかは、イエスさまを神と信じるかどうかにかかっているのです。

 神であるイエスさまが、続いて語られたのが、以下の言葉です。

「しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。」(14b、15)

 文脈から続く言葉を考えると、「しかしあなたがたは、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知りません」がしっくり来ると思います。しかし聖書は、ここで「自分」ではなく、「わたし」すなわち、イエスさまがどこから来てどこへ行くのかを知らない、と言われました。
 自分ではなく、イエスさまがどこから来てどこへ行かれるのかを知らない、それが問題である、それが分かれば、イエスさまが神であることを受け入れることができ、イエスさまの証しが真実であることが分かり、世の光であるイエスさまに従い、そのイエスさまの光の中で新しく生きることができる。決して闇の中を歩むことがない、いのちの光を持つのだ、と。

 イエスさまがどこから来て、どこへ行かれるのかを知る、そうしてイエスさまこそまことの神であることを知る。イエスさまこそまことの神であることを知るのは、次の言葉「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません」に明らかにされています。神であるかどうかは、「さばき」において明らかになる。肉によってさばくのであれば、それは人間の業であり、その裁きを行っているのは人間でしかない。しかしイエスさまは言われます。「わたしはだれをもさばきません」。すなわち、まことの神さまであるかどうかは、さばかない、ということで明らかにされる、というのです。

 イエスさまが、さばかない、と言われるのは、さばく能力がないことでも、さばきを放棄されていることでもありません。また正義をあやふやにしようとしておられるのでもありません。イエスさまは、まことのさばき主です。
 そのまことのさばき主であるイエスさまが、さばかない、と言われるのは、自分自身がさばきを受けようと決意され、それによって、赦し、を実現しよう、その赦しを人間に与えよう、とされることです。そうして、愛と義を一つにしようとされたのです。それが主の十字架です。主の十字架は、ご自身がまことの神であることを明らかにされた出来事です。

3 主よ あなたがもし 不義に目を留められるなら
 主よ だれが御前に立てるでしょう。
4 しかし あなたが赦してくださるゆえに
 あなたは人に恐れられます。
5 私は主を待ち望みます。
(詩篇130・3-5)

 私たちは自分がどこから来てどこへ行くのかを知りません。しかしそれを知らなくても、イエスさまが、どこから来てどこへ行かれるのかを知ろうとするならば、すなわち、イエスさまが神ご自身であると信じてイエスさまを仰ぎ見るならば、世のまことの光であるイエスさまのその光の中を歩むことが出来るのです。もう決して闇の中を歩むことがありません。