静まりの時 ヨハネ11・1~16
日付:2024年01月13日(土)
3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
(3-5)
「あなたが愛しておられる者」。マルタとマリアは、そのように自らの兄弟ラザロのことをイエスさまに伝えました。
プロフィールと言う言葉を辞書で引くと、最初に出てくるのが「横顔」です。その人物自身が自己紹介をしているのではなく、横にいる者が、その人物をどのように見ているのか。横から見ているとどのような人物に映るのか。ときにその人は自覚していないかもしれないことが語られることもあるかもしれません。しかしそのほうが、その人物を正確に表現している、という場合もあるでしょう。
ラザロの姉妹たちは、ラザロのことと、あれはイエスさまに愛されている者です、とイエスさま自身に紹介しました。人間を紹介するのに、これ以上正確な表現はないように思います。
神に愛されている者。私たちは、神さまに誰かを紹介するならば、そのように語るのが良いのだと思います。また自分自身を紹介する時も、神さま、あなたに愛されている者です、と自らを紹介できれば素晴らしいのではないかと思います。
そのようにラザロを紹介することが出来た姉妹たち。その姉妹たちのことも聖書は、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と語りました。
誰かを神に愛されている者です、と紹介することが出来る人は、またその人も神さまの愛の中にある、神さまの愛に生かされていることを喜んでいる、そういう人なのだと思います。
神さまの愛の中にあること。それはここでイエスさまがおしゃられた言葉につながります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」。神さまのご栄光のためにこの病気はある。あらゆる困難も、その困難に出会う者たちが神さまの愛の中にあるならば、その困難も神さまのご栄光のためのものである、と信じることが出来ます。
7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
(7-10)
ユダヤ。それは、神の都でありながら、神の子を殺してしまう都でもありました。やがてこのユダヤにおいてイエスさまは十字架に架かられます。すでにユダヤの人びとは、イエスさまを石打にしようとしたところです。ラザロのところに行く、と言うことは、そのユダヤに行く、ということでした。弟子たちは驚きました。また恐れました。イエスさまへの敵意、そして殺意は、そのまま弟子である自分たちにも向けられています。
しかし、この弟子たちの問いに対してイエスさまはこう答えられました。
「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
世の光とはイエスさまご自身です。世の光であるイエスさまを見て、イエスさまと共に歩むならば、つまずくことはない。しかしイエスさまのいないところを歩むならば必ずつまずく。その人の内に光であるイエスさまがおられないからだ、と。
イエスさまと共に歩むならば、大丈夫だ、と言われたのです。どのような敵意の中にあっても、迫害の中にあっても、困難の中にあっても、イエスさまがともにいて下さるので大丈夫。暗闇の中であっても、イエスさまの光に照らされて歩むことが出来る、と。
このイエスさまの答えに対する弟子たちの反応をみると、このとき弟子たちはちっともこのイエスさまの言葉の意味を理解していないかったようです。
福音書は、教会においてイエスさまの生き証人が少なくなっていく時代に教会において書かれたものです。ですから、執筆時は、すでに弟子たちは教会の指導者として奉仕をしています。その彼らが、自分たちはちっともわかっていなかったのだ、ということをここで赤裸々に記しています。それ自体が、彼らがすでに光の中を歩んでいる者たちなのだ、ということを明らかにしています。