神が造られたものはすべて良いもの

静まりの時 第一テモテ4・4~9
日付:2024年01月15日(月)

4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。
5 神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。
6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
7 俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。
8 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。
9 このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。
(4-9)

 今朝の個所は、この「聖書愛読」(日本聖書協会)には珍しく、文章の塊をまたいでの個所です。4章1~5節には「背教の予告」、6~10節、そして11~16節には「キリスト・イエスの良い奉仕者」と表題がついています。章や節は後代につけられたものですので、あまり段落に縛られる必要はありません。

「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」(4)。

 これは、1~3節の「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。」に続く文章です。

 結婚することを禁じる、食物を断つことを禁じる。宗教ではよくあることです。キリスト教会も、あるグループでは奉仕者たちが結婚をしない、という選択を大切にしています。食を断つ、つまり断食をする、ということも大切にされてきました。
 そういう宗教的な態度に対して、神さまが造られたものは、すべて良いものなのだ、捨てるべきものは何もない、と聖書は語ります。むしろそれらを禁じることは、「良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるもの」である、それはキリスト教信仰から離れることである、感謝をして、すなわち神さまから与えられたものとの信仰をもって受けるならば、何一つ捨てるべきものはない、と語るのです。
 初代教会は、ユダヤの人びとが圧倒的多数でした。旧約聖書に従おう、すなわちレビ記などに書かれている食物規定を大切にする文化の中にあった人たちにとっては、驚くべきことだったと思います。

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」(6)。

 「教える」ということによって、「立派な奉仕者になる」と結びつけたくなる文章ですが、原文では、「教える」と「養われる」という二つの動詞が分詞の形となって、「立派な奉仕者になる」という述語に結び付いています。つまり兄弟たちに教える、ということと、自分自身が養われる、ということが車の両輪のようにあって、はじめて立派な奉仕者になる、というのです。教えるけれども、自分は養われることがない、というのでは、立派な奉仕者にはなれません。
 「養われる」という言葉は、「信仰のことば」と「自分が従ってきた良い教えのことば」という二つの「ことば」によって修飾されています。聖書のことばによって養われると考えたいところですが、パウロは、それはまた、教会が大切にしてきたことばによって養われることでもあるのだ、というのです。
 たとえば、使徒信条をはじめいくつもの信条は聖書のことばそのものではありません。しかし教会のことばであり、信仰のことばであり、自分が従ってきた良い教えのことば」です。私たちは、教会の歴史の中で語られてきた教会の言葉によって養われることが大切です。そうして、教える、ということがなされ、立派な奉仕者になるのです。
 「自分が従ってきた良い教えのことば」。従う、ということがあって、教える、ということが成される。あるいは成り立つ。従うということのないろこには、教える、ということも成り立ちません。

「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。」

 俗悪で愚にもつかない作り話が具体的にどのようなものであったのか。さきに結婚を禁じ、食を断つ、ということが、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものである、と語られていますので、これも、そのような、一見信仰的に見えるけれども、福音ではないことばのことでしょう。

「むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」

 敬虔のために自分自身を鍛錬すること。敬虔とは、神さまを大切にすること、神さまを愛することです。そのために、自分自身を鍛錬する。信仰に生きるということは、この鍛錬に生きる、ということでもあります。

 鍛錬と言う言葉は、原文ギリシャ語で「ギムナゾー」「ギムナジア」。ドイツの教育機関の一つをギムナジウムというそうですが、体操を表わす英語の、ジムナスティックス。あるいは、スポーツジムのジムを想像します。

 とある女性専用のスポーツジムは大繁盛です。筋肉はいくつになっても作られる。筋肉は裏切らない。がむしゃらにやっても効果が期待できません。かえって肉体を壊してしまう場合もあるでしょう。インストラクターに従って、自分に合った運動を、自分のペースで、しかし少しきつい目で行います。有酸素運動とレジスタンス運動。いずれも呼吸を止めることなく、いたずらに力まず、リズミカルに。しんどくなったら休憩、水分補給、しかし三日を開けずに続けましょう、などなど。

 「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」ということですので、すべてに有益な、「今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔」のために、鍛錬したいと思います。この鍛錬ならいくつになってもできそうです。

 祈りと願いの違いを別のカテゴリーに投稿しましたが、認知症になれば、もしかすると願いが出来なくなるかもしれません。しかし祈りが願いだけでなく、神さまと一緒にいること、ということですので、自分のことさえ忘れて、さらには神さまと一緒にいるということまでも忘却するほどに自らをゆだねること。そのような私を神さまが包み込んでいてくださる、神さまが包み込んでいてくださるということも自分の意識の外に置くほどに委ねているという何ともありがたい状態が祈りである、とすれば、地上にいる最後の最後まで私たちは、この鍛錬に生きることが出来るのです。やがてステパノのように「主イエスよ、私の霊をお受けください」(使徒7・59)と私たちも言うことが出来ます。まさに鍛錬の真骨頂であり最高潮です。