静まりの時 ヨハネ1・1~5
日付:2023年12月11日(月)
1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
(1-5)
「ことば」と訳されている単語は、共同訳では「言」とかいて「ことば」と読ませています。私たちが日ごろ使う、ことば、というのと違うものだ、ということを明らかにしようとしているのだと思います。この「ことば」そのものが神さまご自身であると語られ、2節に「この方は」と続きますので、これは、ああイエスさまのことだな、ということが分かります。三浦綾子の『海嶺』では、ギュツラフ訳として「はじめに、かしこきもの、ござる」とあります。
イエスさまは、はじめ、におられた神さまです。はじめ、というのは、おそらく私たちには理解不能なのだと思います。はじめ、というのは、それ以前には何もない、何も前提とされていない、ということです。本当に、はじめ、なのです。いくら言ってもきりがありません。言い尽くせません(笑)。
そのはじめにおられたお方であるイエスさまは、すべての造り主である、創造主である、と語ります。イエスさまは、天と地を造られたまことの神、創造主なのです。
「つくる」といった場合、私たちには、まず材料が必要です。昨日もシュトーレンづくりが成されていましたが、何やらいろいろな材料が準備されていました。その材料からシュトーレンがつくられていきますが、材料自体をつくることはできません。小麦粉も、お百姓さんがつくってくださったものです。お百姓さんも、小麦の種を蒔き、育て、収穫し、脱穀、製粉という工程を踏んで、小麦粉をつくってくださったのですが、水、太陽光、気温、肥料、季節の移ろいなど、さまざまな要因があって小麦粉は出来ますから、お百姓さんも、自分たちの手の届かないところで、つくる、ということが進むことを知っておられます。突き詰めれば、人間がつくるといった場合には、必ずのその前提とされるもの、材料が必要なのです。
しかし、神さまはすべてをつくられたのですから、その材料もつくられました。ではその材料の材料は? それもつくられました。その材料の材料の材料は? それもつくられたのです。
ということは、一番最初の、つくる、ということは、どのようになされたのか。じゃじゃ~ん。そこでは、無から有を、つくられたのです。私たちの神さまは、無から有をお造りになる創造者なのです。
さて、いまこの世界に存在するあらゆるものは、とにかく、その前提とされるもの、材料が必要である、といいました。私が存在するためには、私の両親が存在していました。シュトーレンが存在する前には、小麦粉やバターが存在していました。バターが存在するためには、牛さんが存在していました。牛が存在するためには、そのお母さんの牛が存在していました。今座っている椅子が存在するためには、その材料である、鉄や木材が存在していました。それらが存在するためには、砂鉄や植物、が存在していました。
こうして遡ってみると、一番最初に何が存在していたのか。すでに現在いろいろなものが存在していて、しかもそれらがことごとく、他に依存しなければ存在し得ないものである、のですから、一番最初は、何ものにも依存しないで存在できるもの、が存在していなければならないことになります。
なにものにも依存せずに存在することのできるものは、人間の経験値の中には、存在しません。すべては何かに依存しているのですから。その何ものにも依存しないで存在しているもの、それが、神さまです。神さまはが存在する、ということは、論理的な結論として当然のことなのではないか、と私は思っています。
さて、それでは、その最初の何ものにも依存しないものは、神と言わなくても、大いなるものとか、力、とか言ってもよいのではないか・・・。聖書は、その「神」が、私たちのところに来てくださった、遠く離れた存在ではなく、まことの人間として、私の傍らに、私と共に、そして私の内に、来てくださった、と語ります。
そしてその存在にこそ、「いのちがあった」といい、そのいのちは「人の光であった」と聖書は語ります。
私たちとともにいて下さる創造者こそ、いのちをお持ちのお方であり、そのいのちが、私たちにとって「光」である、というのです。
「光は闇の中に輝いている。」
いのちというのは、光なのです。輝いているのです。いのちある者は、すべてこの輝きをいただいています。いのちの光が輝いているところに愛があります。「あの地平線 輝くのは どこかに君をかくしているから たくさんの灯が なつかしいのは あのどれかひとつに 君がいるから」(ラピュタの挿入歌)。
私たちはみな神さまに創造されたものです。神さまに創造されたので、いのち、をいただいています。そのいのちは輝いています。輝くいのちがある限り、だれかを照らしています。なにかをするのでなく、ただそこにいるだけで、生きている、ということは、輝いているということであり、必ず誰かを照らしているのです。
「闇はこれに打ち勝たなかった。」
新改訳の欄外中には別訳として「これを理解しなかった」と書かれています。新共同訳はこちらを採用しています。
打ち勝つと訳されている言葉は、もともとは、ギリシャ語で「カタランバノー」といって、「捕える」という意味の単語です。闇は光を捕えることができない。この世が闇とすれば、その世は、光である神さまを捕えることが出来ない、そして神さまの光に、そしていのちに生きる者を、捕えることが出来ない。光によって、まわりも光に包まれればよいのですが、依然、闇は深い。しかし光は、その暗闇の中で輝き続けている。自らを理解されることがなくとも、輝き続けている。暗闇に取り込まれてしまうことなく、輝き続けている。神さまのいのちに生かされる者は、この光の輝きをいただいているのです。なんと幸いなことでしょう。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」
(マタイ5・14)