彼はナザレ人と呼ばれる

静まりの時 マタイ2・19~23
日付:2023年12月09日(土)

 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。
「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」
 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。
(19-23)

 イスラエルの王であったヘロデ大王は、イスラエルに新しい王がお生まれになった、という知らせを聞くと動揺しました(3)。王は、知らせを持ってきた博士たちをひそかに呼び、詳しく聞きます。「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」(8)。
 ヘロデは、拝むため、ではなく、なき者とするために、詳しく聞こうとしたのですが、博士たちは夢でヘロデのところに戻らないようにとのお告げを受け、それに従って、別の道から自分たちの国に帰っていきました。
 博士たちに欺かれたことを知ったヘロデは、激しく怒ります。その怒りによって、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を皆殺しにしました。
 この恐ろしい虐殺も、聖書は「預言者エレミヤを通して語られたことが成就」したことであった、と語ります。

 さて、ヘロデが幼子のいのちを狙っていることを主の使いから夢で知らされたヨセフとマリアは、エジプトへ逃れていましたが、ヘロデ大王が死ぬと、戻りなさい、とのお告げを受けました。彼らはそれに従って、故郷に帰ります。しかし、ヘロデ大王は死んだのですが、その子アルケラオが、父に代わってユダヤを治めていることを聞き、そこに行くのを恐れました。すると、さらに夢で警告を受け、それに従って、ガリラヤ地方に退きました。こうして、ナザレという村に住むことになりました。このことも「預言者たちを通して」語られたことが成就するためであった、と聖書は語ります。

 「ナザレ」という地名は、実は旧約聖書のどこにも見当たりません。さまざまに解釈されるところですが、ルカ1章には、マリアの生んでいた町であったことが記されています(1・26)。そもそもナザレ村のあったガリラヤという地方自体が、預言者が生まれるようなところではないと蔑まれていたようですから、そのような地域にあった名もない村、ということです。

 キリスト教は当初、ユダヤ教のナザレ派、と呼ばれていたそうですから、新約聖書が書かれたときには、ナザレ、という村の名前はよく知られたものとなっていた、ということでしょう。しかし、もともとは、誰も知らないような名もない村であった、ということです。

 イエスさまが、この誰も知らないような村でお育ちになられた、ということがとても重要な気がします。そしてそのこと自体が、預言の成就である、と語る聖書は、まさに真理を語る書物であると思うのです。

 マタイの福音書は、始まりから終わりまで、とにかく「神さまは、私たちと一緒にいてくださる」ということを語ります(1・23、28・20)。神さまは、特別なところに、特別な存在とともにいてくださるというのではありません。世界が見過ごしてしまうようなところに、ともにいてくださるのです。

 最近、普通であることの勇気、という言葉を聞きました。普通であるためには勇気が必要である、というのです。人間は、自分への価値観が確かにされていないと、生きていけません。自分がその共同体において価値があるという感覚がないと居心地が悪くなってしまいます。それで、自分の価値を確かめたくなります。何か特別な存在であるかのように振る舞いたくなるのです。しかし、そもそも人間はそんなことをしなくても、価値のある存在なのです。生きているだけで、ただそこにいるだけで尊い存在なのです。わざわざ自分の価値を証明する必要はないのです。普通でいいのです。そのためには、勇気が必要である、ということなのだと思います。
 それは、神さまに愛されている、ということを受け入れる勇気といってもよいのではないかと思います。自分が愛されているかどうかは、確かめることではなく、受け入れることです。すでに神さまは、二千年前に、自らのいのちを捨ててまで私を愛してくださったのですから。特別な私ではなく普通の私。そこに神さまはともにいてくださるのです。

 今日は、祈り待ち望んでいましたクリスマス・コンサートが開催されます。ゲストには、過去2回キャンセルすることになり、本当に申し訳ないことをしたのですが、おゆるしいただいて、今回あらためて神戸から来てくださいす。
 ずいぶん昔のことですが、私が伝道者になろと、それまで勤めていた教員を退職し、大阪の神学校に入学することになったとき、当時1歳になるかならないかの子どもがいたこともあり、周りはずいぶん心配しました。家族は、何とか思いとどまらせようとしました。母は、牧師の言うことなら聞くだろうと、高校の同級生の兄が明石で牧師をしているというので、連絡を取り出かけていきました。その牧師は、丁寧に話を聞いてくださり、祈ってくださったそうです。私の方にも電話を下さりいました。入学した神学校は、その牧師の所属の神学校だったので、不思議なつながりがあったことを後になって思いました。
 この先生は数年前に天に召されたのですが、今回お招きしたゲストは、そのお嬢さんです。ピアノとお話をしてくださいます。世界から見れば小さな集いですが、主のご降誕をともにお祝いしたいと思います。