御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます

静まりの時 ヘブル1・1~4
日付:2023年12月12日(火)

 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。
(1-4)

 神さまが語られる、ということ。神さまは語る方なのです。黙っておられる方ではありません。旧約聖書において実に多くを語られました。そしてこの終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。「あって」語るというのは、少し不思議な感じがします。新共同訳では「御子によって」、共同訳2018では「御子を通して」。
 御子イエスさまは、単なる伝令でも、情報を伝える道具でもありません。御子イエスさまは神ご自身です。神さまを知りたい、神さまの御声を聞きたい、と思うならば、イエスさまに聞けばよいのです。そしてイエスさまご自身において語られた「ことば」に聞けばよいのです。イエスさまにおいて語られたことばとは、何よりも十字架のことばです。

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1・18)

 神さまは、御子イエスさまを、万物の相続者と定められました。また御子イエスさまによって、世界を造られました。世界は御子イエスさまによって造られたのです(ヨハネ1章)。御子イエスさまは、アルファベットの最初の文字アルファであり、アルファベットの最後の文字オメガのように、最初であり最後のお方なのです。
 この「世界」と訳されていることばは、アイオーンというギリシャ語で、世代、時代、長い時、という意味を持っています。神さまは、常に創造者として、その時代その時代を創造しておられる、のです。創造の御業は、最初に行われただけで、あとはほったらかしということではありません。私たちの神さまは「時計職人の神」ではないのです。私たちを造られた神さまは、いつもともにいて、新しい創造の御業を行っていてくださる。そして支え続けていてくださいます。

 御子イエスさまは、「神の栄光の輝き」です。栄光とは、ヘブル語では「重たい」という意味を持っています。重たい、すなわち存在感がある、ということ。神さまの存在感が輝いている。どこからでも目にすることが出来る。それがイエスさまです。
 御子イエスさまは、「神の本質の完全な現れ」です。何の欠けもありません。必要十分なものがイエスさまにあるのです。ですからイエスさまに、何かを付け加える必要はありません。またどこかを割り引く必要もありません。「本質」と訳されている言葉は、土台という意味を持っています。御子イエスさまを見れば、神さまが確かに生きて働いておられる、確かなお方である、ということがわかるのです。
 御子イエスさまは、その「力あるみことば」によって、万物を保っておられます。そして、その「保つ」ということは、「きよめる」ということでもありました。イエスさまはきよめを成し遂げてくださいました。そして今、父なる神さまの右に座しておられます。

 神さまは、御子イエスさまにおいて語られた「力あるみことば」によって、すべてを創造され、いまも創造され続け、きよめられ、保たれている、ということ。力あるみことばとは、聖書の言葉ですが、なによりも、第一コリント1章18節が語るように、十字架の言葉です。
 創造の御業において、十字架のことばが支えとなっているということ。神さまの創造の御業は完全です。完全というのは、愛の完全ということです。そこには完全な愛があります。愛が成り立つためには、自由がなければなりません。愛さないという自由が保障されていて、そこで愛するという選択が成される。それによって愛が成りたつ。しかし人間は、その自由を乱用しました。そうして罪びととなってしまいました。全知全能である神さまは、そのような顛末を想像できなかったわけではないでしょう。しかしあえて自由を与えて創造されたのです。そこにはすでに十字架の愛があります。
 人間の歴史は、神さまの愛がなければとうの昔に破壊され、消滅していたのではないかと思います。常に神さまは十字架のことばをもって支え続けてきてくださいました。
 この世は、終わりの時、に向かっています。その時がいつであるのかは分かりませんが、その終わりの時も、十字架のことばが、すべてを支えています。罪のきよめをいただいた私たちは、そのときを、いたずらなさばきの時として恐怖して待っているのではありません。完成の時として喜びながら待ち望んでいます。