神の子、イエス・キリストの福音のはじめ

静まりの時 マルコ1・1~8
日付:2023年12月08日(金)

1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。
 「見よ。わたしは、わたしの使いを
 あなたの前に遣わす。
 彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を用意せよ。
 主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。キリスト教信仰のはじまりは、ここにある、と語り始められました。聖書は、そのはじまりを、バプテスマのヨハネの登場から語ります。そしてそれは、旧約聖書のイザヤ書の言葉の引用から始めます。
 はじめ、といいつつ、旧約聖書との連続性を語ります。キリスト教信仰は、何もないところに、いきなり、突然、出現した、というのではなく、旧約聖書に語られた信仰があり、その連続の中に生まれたことを語るのです。それは少し大胆な言い方をするならば、旧約聖書に語られた信仰の、リフォーム、改革、としてキリスト教はある、と語るのだと思います。
 「主の道を用意せよ」のこの「主」は、引用個所である旧約聖書のイザヤ書を見ると、新改訳では太字になっています。太字ということは、原文では、聖四文字(テトラグラマトン)、すなわち、ヤーウェの神、唯一まことの神さまのお名前です。ヨハネは、ヤーウェの神さまの道を用意するために神さまによって遣わされ、そうしてやって来られたお方がイエスさまですから、聖書は、ここで、ヤーウェの神=イエス・キリスト、と語っていることになります。イエスさまは、旧約聖書に語られた神ご自身であると、聖書は語るのです。神さまは、ご自身を私たちに現すにあたり、御子においてご自身を表わされました。

5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 バプテスマのヨハネが授けていたバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」であると聖書は語ります。ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみなやって来た、というのですから、非常に大きな出来事です。そこには、人びとの内にあった悔い改めへの渇望が、如何に大きかったが想像されます。人びとは、飢え渇いていたのです。人びとの飢え渇きを満たしたバプテスマのヨハネについての説明が続きます。

6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。

 バプテスマのヨハネは人びとを魅了したのだと思います。しかしここで、如何に人びとを魅了したバプテスマのヨハネであっても、神ではない、ということが明らかにされます。ヨハネ自身の語りとして明らかにされます。

 バプテスマのヨハネの偉大さとは何か。それは自分を神としなかった、ということです。らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた、というのは、まさに預言者然としています。そのヨハネのところに、多くの人びとがやって来たのです。人間は、そのような事態を目の当たりにすると、自分が何者かになったかのような錯覚を覚えるものです。まさに自分を見失うのです。
 しかしヨハネは自分を見失いませんでした。まことの神さまは、自分の後に来られるお方である、自分自身は、その方の履き物のひもを解く資格もない、すなわちしもべとしての資格もない、と語ったのです。
 バプテスマのヨハネは、どこまでもイエスさまを指し示す存在として自らをわきまえていたのです。スポットライトの光はイエスさまに、自分はスポットライトそのものである。スポットライトは屋根につるされていて、観客からは見えないものなのです。講壇で語る説教者もこうでなければならないと思いました。

8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 ヨハネは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝え、人びとに授けました。しかしイエスさま「聖霊によってバプテスマをお授けになる」とヨハネはいいました。
 ここに「聖霊のバプテスマ」という言葉が出てきました。この言葉は、すこし独り歩きしてしまった言葉ではないか、と思います。独り歩きした結果、キリスト教会が授けるバプテスマを儀式的であるとして「水のバプテスマ」とし、それに対して、霊的な体験、例えば異言を語るとか、預言をするとか、癒しが行われる、といった事象を「聖霊のバプテスマ」と称して区別する、ということが起こってしまいました。これは聖書から離れて独り歩きしてしていることだと思います。
 聖書は、イエスさまのお授けになるバプテスマこそ、聖霊のバプテスマである、と語っています。私たちが、洗礼を受けた時に牧師が語ったのは、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けます」でした。すなわち、あの時の洗礼こそ聖霊のバプテスマ、だったのです。それが二千年のキリスト教会が語ってきたバプテスマ、洗礼の理解です。聖書に基づいた、独り歩きしていない、洗礼の理解なのです。
 ですから、もし誰かに、あなたは洗礼を受けたと言っているが、どう見てもキリスト者らしくない、霊的なレベルが低いように思う、水によるあの洗礼は単なる儀式であって、体験こそ重要なのですよ、聖霊のバプテスマを受けましたか? などと言われたとすれば、胸を張って答えたいと思います。はい、聖霊のバプテスマを私は受けました、その日あの時、何々牧師より、どこどこで、洗礼を授けていただきました。兄弟姉妹の見守る中で、信仰の告白をし洗礼を授けていただきました! 私は誰が何と言おうと、神の子とされたのです、と。

 マルコの福音書の最初の個所に、神の子、ヤーウェの神、聖霊、と三位一体の神さまが紹介されました。神さまは、私たちにご自身を表わすのに、三位一体の神としてお出会い下さいます。