静まりの時 ルカ1・67~79
日付:2023年12月07日(木)
76 幼子よ、あなたこそ
いと高き方の預言者と呼ばれる。
主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、
神の民に、知識を与えるからである。
78 これは私たちの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、
曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に導く。」
ザカリヤは、口が開き、舌が解け、ものが言えるようになると、神さまをほめたたえました。そうして歌われた歌が、「ほむべきかな、・・・」で始まる賛美でした。
この賛美は、始まりの言葉が、ラテン語で「ベネディクトス」という単語なので、後々、ベネディクトスと呼ばれるようになりました。この単語は、人の名前にもつけられるようになりました(ベネディクト・カンバーバッチ、ベネディクト16世・・・)。原文のギリシャ語では、良い言葉を語る(エウロゲートス)、という意味の単語です。賛美する、ということは、良い言葉を語るということなのです。もちろんお世辞を語るということではありません。
ここで誕生した幼子はヨハネと名付けられました。のちにバプテスマのヨハネを呼ばれるようになります。「罪の赦しによる救い」の知識を与える者となる、と語られます。
救いとは何か。それは罪の赦しによる救いである、と聖書は語ります。
では、罪の赦しとは何か。それは神さまの「あわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ」ることであり、そうしてやって来た光が「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」ことである、と聖書は語りました。
私たちは暗やみと死の陰に住んでいた者でした。そこに神さまの光が照らされました。光そのものである神さまがやって来てくださいました。そうして私たちの歩みが確かなものとされ、平和の道に導かれて行きました。それが救いなのです。
罪が赦される、ということは、光の中を歩むようになる、ということです。それは平和の中を、平安に歩むようになる、ということです。それが、罪が赦される、ということなのです。
今朝のこの個所の中に「預言」という言葉が幾度か出てきました(67、70、76)。祭司であったザカリヤが、預言者となり、預言者とも呼ばれるバプテスマのヨハネのことを歌いました。
もともと、祭司と預言者は、対極にある存在でした。祭司とは神殿に仕える人たちで、どちらかといえば体制側の存在です。それに対して、預言者は、王や権力者に対して、果敢に物言う存在でした。祭司が与党とすれば、預言者は万年野党です。
その対極にある存在が、ここで一つとなっている。平和、とは何か、を考えさせられます。