天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなもの

静まりの時 マタイ13・47~50
日付:2023年11月21日(火)

また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
(47-50)

 天の御国は、「海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網」のようなものだ、と主は言われました。何もかもいっしょくたに集める。食べられるものもそうでないものも、有用なものもそうでないものも、石ころもバケツも長靴も集めるのです。そうして陸に引き上げられると、選別、が行なわれます。良いものは入れ物に入れ、大切な商品として保管され、やがて市場に出されて人びとの役に立つものとなります。一方悪いものは、外の投げ捨てられるのです。
 この世の終わりにもそうなる、と主は言われました。この世の終わりには、御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、悪い者は火の燃える炉に投げ込みます。投げ込まれた悪い者たちは、そこで泣いて歯ぎしりすると言われました。
 正しい者も悪い者も混ざり合っている中から、悪い者が「より分け」られ裁かれる。それがこの世の終わりに必ずある、と主は言われたのです。
 ただ主はそれを「正しい者たちの中から悪い者どもをより分け」と言われました。正しい者たちの中、に、悪い者がいるのでしょうか。文章としては、正しい者と悪い者の混ざり合った中から、というほうが分かりやすいし、正しい表記のように思います。しかし聖書は、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、と語るのです。
 人間が正しいと思っている人たちの中にも、実は悪い者がいる、という意味かもしれません。あるいは、正しい者、すなわち、義人はいない、ということですから、自らを義とする者は、みな悪を持つ者だ、ということかもしれません。そうすると、皆正しい者ではないのですが、ここで正しいとは、やはり神さまとの関係のことを語っていて、自らを自らの力や業によって正しいとする者ではなく、ひたすらイエスさまの十字架と復活の贖い、その一方的な神さまの愛によって義とされた人たちこそ、真に正しい者であり、最終的な審判に耐え(堪え)得る者である、ということではないかと思います。

 今はこの混ざり合った状態の中にあるのです。しかしそれが最終的なことではないと言われます。最終的にはきちんと裁かれる時がくる。いまはその混ざり合った中に生きなければならない、と。忍耐と寛容が必要とされるのが、今の時である、ということでしょう。

 ここでイエスさまが言われた「天の御国」とはいったいなんであるのか。この「世の終わり」のことを指して、天の御国と言われた、と理解することが出来ると思います。神さまの完全な支配が訪れると、善も悪も混ざり合ったような世界に峻別が行われ、それぞれに報いや裁きが行われる、帳尻が合わされる、それが天の御国だ、と。
 今一つは、「天の御国」とは「あらゆる種類の魚を集める網」そのものである、とも読めると思います。天の御国、すなわち神さまのご支配の中にある、というのは、この、あらゆるものが集められている状態、そのものを指している、という読み方です。もちろんそのような状態が永遠の状態ではありません。かならず「終わり」がやってくるのです。しかし今はその「終わり」の時ではない、すなわち、混ざり合った状態に甘んじていなければならない、それが神さまのご支配の中に生きることである、と。
 そうすると、神さまのご支配の中に生きるということは、おのずと、忍耐と希望が求められることとなります。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)

 苦難がある、善と悪が混ざり合った中に生きなければならない。しかし勝利の主がともにいてくださる。主ある者は、忍耐と希望をもって生きるようにと招かれています。