静まりの時 マタイ12・33~37
日付:2023年11月22日(水)
33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。
34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。
35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」
(33-37)
人間が語る言葉は、どのような言葉であってもその人の心の中から出ている言葉であって、その人自身を語っている。その語る言葉のすべてについて、やがての裁きの日に申し開きをしなければならない。そうイエスさまは言われました。
これは、心にもないことを言ってしまいました、という言い訳が通じないことになります。
「無益なことば」とはいったい何であるのか。新共同訳、共同訳2018では「つまらない言葉」。ギリシア語では「アルゴス」という言葉で、仕事をしない、怠惰、怠けている、という意味もあるそうです。アルゴンガス(不活性ガス)の語源でもある言葉とのこと。
いい加減な言葉ばかりを語ってしまっている者にとっては、耳の痛い聖書個所です。
さて、このイエスさまの言葉は、まずは誰に語られたのか。この「まむしの子孫たち」と言われている人びととはいったい誰のことなのか。
この言葉は、21節からの出来事に続いて語られた言葉でした。一人の人の癒やしをめぐって、群衆は驚いて、ここにダビデの子がやってきたのだろうか、と言ったのですが、それに対して、いや、悪霊の業だ、とパリサイ人たちは言いました。そのパリサイ人たちに対して「まむしの子孫たち」と呼んで語られた言葉がこの言葉なのです。
パリサイ人たちは、いわゆる「無益なことば」を語っていたのでしょうか。むしろ彼らは、自分にとっても人びとにとっても益となる言葉、少なくとも彼らはそう信じていた言葉を語っていたのではないでしょうか。律法を大切にしなさい、安息日を大切にしなさい、神さまを大切にし、隣人への愛に生きていきなさい、と語っていたのではないでしょうか。厳しいまでに語っていたのではないでしょうか。ここで彼らが語った、「悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」(24)も、彼らは確信に満ち、それこそ神さまの御心である、有益な言葉なのだと思って語った言葉だったのではないでしょうか。
そのパリサイ人たちに、無益なことばを語っているならば、やがての時に申し開きをしなければならない、と主は言われたのです。主イエスさまの言われた「無益なことば」とはいったい何なのでしょう。
それは、愛のない言葉、ではないかと私は思います。そして真実に人を生かす言葉ではない言葉、人を滅ぼしてしまう言葉なのではないか、と思います。どんなに聖書的な言葉が語られたとしても、正しい言葉が語られたとしても、そこに愛がなく、相手を滅ぼしてしまう言葉であれば、それは無益なことばなのだと思います。
「あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」(27)
恐ろしい言葉ですが、私たちが義とされるために語るべき言葉、とはいったいどのような言葉なのでしょう。
私たちは自分の力によって自らを義とすることは出来ません。私たちはみな罪びとであり、神さまの前に裁かれて当然の者なのです。にもかかわらず義とされました。主イエスさまは十字架に架かり、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に甦られました。この主イエスさまによって、その一方的な愛と義の御業によって、私たちは義とされたのです。
加藤先生の説教集からの言葉です。
「みんな甦りの主のいのちの中に生き、み霊に支えられて、導かれて、甦りの日に向かって歩いてゆくのです。その時に、どうして人を傷つける言葉を語り得ようか。どうして、神のみわざをないがしろにする言葉を、口にすることができるのだろうか。どうして、自分のいのちを呪う言葉を語ることができるのだろうか。私どもの日ごとに聖書を読み、祈る生活が求められるのも、そのためであります。み霊において働いておられ、いま私どもと共におられる主の働きを、いつも受け入れる練習を、朝ごとに、夕ごとにするのであります。その時に、自分の正しさを神の前に、人の前に主張することをやめて、神の正しさの中に生きることを覚えていくのであります。そして、自分の罪が赦されることを知っている人間として、人の罪を赦すことが、できるようになるのであります。」
(加藤常昭、『マタイによる福音書3 加藤常昭説教全集8』、ヨルダン社、1991、163頁f)
自分が神さまの愛の中に捕らえられている、そのことを喜び感謝していること。どんなに罪深い者であっても、神さまの愛は変わることがない、その喜びの中に生かされていること。自分の正しさを主の前に、そして人の前に主張することを止めること。神さまの正しさの中に生きること。そのことを確かにさえしていれば、そこで語る言葉は、決して無益なことばではない、愛のない言葉にはならない、というのだと思います。
信仰生活とは、自分が如何に不義なる者であるのかを学び続けることであり、それと同時に、神さまの正しさを知り、神さまの義のみに生かされていくことを知り感謝し喜ぶことなのです。
自分が正しいと思い、それに固執している人の語る言葉は、無益なのです。しかし自らの罪を深く覚え、神さまの前に懺悔しつつ、神さまの赦しを受け取り、その愛の中に生きる人、生かされている人の言葉は、優しさと愛に満ちているのだと思います。
義認信仰が確立されることが、愛の言葉を語るための必要十分条件である、ということでしょう。
「木の良し悪しはその実によって分かります」(33)。
「心に満ちていることを口が話すのです」(34)。