主よ、救われる人は少ないのですか。

静まりの時 ルカ13・22~30
日付:2023年11月23日(木)

22 イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」

 イエスさまはエルサレムに向かって旅を続けておられます。ベツレヘムにお生まれになりガリラヤのナザレでお育ちになられたイエスさま。その究極の目的地はエルサレムでした。このエルサレムにおいて十字架に架かられます。イエスさまの旅は、十字架に向かう旅でした。
 その道々、町や村を通りながら教えられました。多くの人たちがそれを聞いたことでしょう。感心した人もいたでしょう。反発を覚えた人もいたでしょう。聞いただけで終わった人も多くいたことだと思います。しかしついて行った人たちもいました。さらには、イエスさまに問いかけた、質問した人もいました。「主よ、救われる人は少ないのですか」。
 イエスさまの教えを聞いて、このような疑問を抱くことになったのにはどのような理由が考えられるでしょうか。
 イエスさまの教えを聞いて、自分は果たして救われるのだろうか。自分の愛する家族はどうだろうか、と少なからず不安を持ちながら疑問を持ったということでしょうか。

 私たちもさまざまな理由で聖書を読み、教会の門を叩きました。その目的はやはり自分の救いであったと言えるでしょう。明確にそのような思いを持ってなかったのかもしれません。しかしどこか自分の人生に不安を抱え、救いを求めていたのではないかと思います。
 牧師の説教を聞き、自分は救われるのだろうか。自分も救いの輪に入ることが出来るのだろうか、と疑問を抱く。それは大切な問いだと思います。そこで聞きたい言葉は、あなたも救いの中にあるのですよ、という安心感を与えてくれる言葉ではないか、と思います。

 しかしイエスさまがその問いを受けて、人びとに向かって語られた言葉は驚くべきことでした。

イエスは人々に言われた。
24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 救いには限りがある、いつか戸が閉じられる時がやってくる、どんなに救いを求めても、もはや戸が閉じられ、「外に放り出されていることを知って」絶望する時がやってくるのだ、とイエスさまは言われたのです。恐ろしいことです。

 「不義を行う者たち」と言われました。不義と訳されている言葉は、「悪事を働く者どもよ」(口語訳)、「不正を働く者ども」(共同訳2018)。原文では「アディキア」で、義の反対のこと、不正、不義、正しくないこと。
 「義」が関係が正しくないこと、と理解することを考えると、この「不義」は、いわゆる犯罪を犯した、とか、律法を守っていないという意味よりも、関係の中にあっての不義、正しくないこと、という感じです。神さまとの関係が正しくないことが、悪事を働くと、かなり強い言葉で訳されていることになります。

 イエスさまの言葉を聞いてその周りにいた人たちは、決して悪事を働いていた人ではないと思います。しかし悪事とはいったい何か。犯罪を犯さず、律法をきちんと行っているならば、義に生きていると言えるのか。神さまとの関係が壊れているならば、どんなに義に生きているといってもそれは不義であり、悪事を働いていことなのだ、と言われたのだと思います。
 では、神さまとの関係の正しさの中に生きるということはいったいどういうことなのか。「主よ、救われる人は少ないのですか」と問うことの問いに潜んでいる問題とはいったい何であるのか。

29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

 東西南北、イスラエルを越えて、世界中からやって来た人びとが、神さまの御国で食卓に着くと言われました。救われる人は少なくはないのです。救いは世界大であり、そこには分け隔てがない、おおよそ壁というものがない。救いはすべての人に開かれているのだ、と言われます。
 ただ、後先が逆になる、昨日救わればかりの者が、先になる、長く信仰の先頭に立っている者が、後になる、と言われます。おおよそ人間の思いとは違う順序が、救いにおいて起こることだ、と言われるのです。
 「救われる人は少ないのか」との問いは、大切な問いだと思いますし、自らの救いを真摯に問う言葉だと思います。それに対してイエスさまは、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、すべての人が救いに招かれている、人間の思いをはるかに超えたことが神さまの救いの御業である。その神さまにお委ねすればいいのではないか、と応えられたように思います。
 救われているのだろうかと自分を見つめる目を、神さまの方に向けて、その神さまが大きく手を広げて招いてい下さるのですから、その御手の中にすべてをお委ねすればよいのです。こののち救われるのだろうかと戦々恐々とすることから、自由にされ、神さまの一方的な愛の中に自分自身をお任せすればいいのだと思います。