静まりの時 エレミヤ45・1~5
日付:2023年11月24日(金)
あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」(5)
神さまは、エレミヤの口述筆記をしてきたネリヤの子バルクに向かっての言葉を、預言者エレミヤに語られました。バルクは、今まで人びとへの言葉を、ただ橋渡しのように、エレミヤから聞きそれを筆記してきました。それが突然自分に向かっての言葉が語られたのです。おそらくそれまでも、多少は自分への言葉として聞いてきたに違いありません。しかしここでは直接にバルクに向かって語られたのです。驚いたことでしょう。
説教の準備をしていると、聖書を読みながら、そこに語るべき神さまからの御声を聞きます。そうしてそれを語るべき言葉と整えて説教壇に臨むことになります(あまり整っていませんが(笑))。口述筆記をしたバルクのように橋渡しです。しかしそれが、自分とは関係のない言葉として語られるとすれば、説教者の役割を果たしたとは言えません。聖書の言葉は、まず自分自身に語られる言葉として聞かなければなりません。
そうでないと、講壇からの言葉が、上滑りな言葉となったり、神さまからの一方的な裁きの言葉になったりするような気がします。
罪を指摘する言葉も自分への言葉として聞く。慰めの言葉も自分への言葉として聞く。そうして自分への言葉として聞き取った神さまの言葉を、会衆と分かち合う、あるいは対話をする、それが説教なのだと思います。
たとえば、「罪びとの頭」という言葉であれば、「あなたは罪びとの頭です」という言葉よりも、「私たちは罪びとの頭です」という言葉、あるいは「私は罪人の頭です」という言葉になるでしょう。
また、「神は愛」という言葉であれば、「神さまはあなたを愛しておられます」という言葉よりも、「神さまは私たちを愛しておられます」という言葉になるのだと思います。
かつてバルクは人びとから心無い言葉をかけられました。エレミヤをそそのかして自分の言いたいことを広めようとしているのだ、と(エレミヤ43章)。説教者も、聖書の言葉を利用して自分の言いたいことを語っているのだ、と言われたならば、大変残念なことです。またそう揶揄されないための様々な努力と工夫は、し過ぎても、し過ぎるということがないと思います。それでも、そのような危惧は常に付きまとうことだと思いますし、説教者の内面的な戦いの一つだと思います。
エレミヤを通してバルクに語られた神さまの言葉はとても大切な言葉だと思いました。
あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」(5)
自分のために大きなことを求めない。神さまの言葉を伝える「道具(インストゥルメント)」(平和の祈り、アシジのフランチェスコ)に徹すること。神さまを追い越さないこと。
道具という言葉には「ツール」という言葉もありますが、このフランチェスコの祈りのインストゥルメントは、お医者さんの聴診器とか、楽器など少し専門的な道具を表わすようです。説教者は神さまに用いていただくための、楽器なのです。
良い楽器は、使い手の意志、意思、心を表わします。誰が奏でてもよい音が出る、ということはありません。スタインウェイのピアノも、ストラディバリウスのバイオリンも、その音色や音楽は演奏者に左右されることでしょう。
「大きなことを求める」説教者は、神さまの言葉を、自分流にアレンジして、結果自分の言いたいことを語ってしまうのではないでしょうか。
まことの裁き主である神さまへの畏れを確かにしながら、自分のいのち一つが守られることに安んじていること。いのち以外の何かを求めようとすると、どうしても大きなことを求めてしまうのです。自分のいのちが守られていることを喜び感謝する。説教者は、その喜びと感謝のみを手に講壇にのぼるのです。