静まりの時 マタイ13・24~30
日付:2023年11月20日(月)
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。(24)
イエスさまのたとえ話です。「天の御国」。神さまのご支配のなかに生きる、すなわち信仰に生きるということは、こういうことだよ、とイエスさまは語られます。
「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた」。
神さまはこの世界を創造されました。神さまが世界を創造されたとき、その創造物をご覧になって「良い」と言われました。この世界は本来良いものに満ちています。
「ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。」(25,26)
しかし、その良いもので満ちているはずの世界に、「悪」と思えるものがさまざまに存在ます。全知全能であり、善である神さまが、良い創造の御業をなさったのに、なぜその世界に「悪」が存在するのか。それは「敵」の仕業である、と言われました。人びとが眠っている間、に、敵がきて毒麦を蒔いたのだ、というのです。
人間は眠るのです。眠らなければ生きていけません。しかし魂の眠りは、深刻な問題を生み出しました。神さまに向かって心を閉ざす人間の罪は、さまざまな毒麦が、この世界にまき散らされる隙を生んだのです。
「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。『あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。』」(マタイ26・40,41)
それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』(27,28)
悪を目の当たりにすると人間は裁かずにはおれません。すぐにでも正義をなしたい、という衝動は、義憤から来るのだと思います。しかしイエスさまは言われました。
しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」(29,30)
「毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない」。これはいったい何を語っているのか。毒麦とそうでない麦とを、判断し区別することが人間には不可能である、あるいは人間のするその峻別は完全ではない、とイエスさまは語られたのだと思います。判断力が十分ではない人間が、まるで神のようになり裁きを行うことの危険性を語っておられるのだと思います。裁きは最終的に神さまがなさることなのです。
神の国に生きる。神さまのご支配のなかに生きる。神さまを信じて生きる者の生き方は、悪の存在する世界の中にあって、裁きは神さまのなさることである、ということを信じて生きることである、というのです。
裁きをしない、裁かない、という生き方。裁くというのは、単に判断する、という意味も持っていますので、それを全くしないということはかなり難しいことです。あるいは不可能なこと、といってもよいでしょう。
私たちは何かをするのに必ず、判断、をします。今朝はパンにしようか、ご飯にしようか、と判断します。それと同じように、これは善である、これは悪である、これは正しいこと、これは間違っていること、と判断をして、善や正しいほう、良い方を選択して生きています。生きることそのものを止めない限り判断することを止めることは不可能なような気がします。
ただ、自分の判断には、かならず間違いがある、ということをわきまえていたいと思います。自分では毒麦だと思っていても、もしかするとそうではない麦かもしれない、と心のどこかでわきまえている。毒麦だ、自分では確信していても、そうと決めつけることをしない。それが、神さまを信じる者の生き方なのだと思います。そしてそれが健やかな生き方を生み出し、また共に生きる人たちと幸せに生きる道なのだと思います。
これは、犯罪や不正に目をつぶっていなさい、ということではないと思います。その辺が難しいのですが、犯罪や不正は、多くの場合、それによって被害を受けたり、人生を否定されることになったりする人がいますので、そういう人たちを守る、支える、という意味で、大切なことだと思います。つまり犯罪や不正を犯す人に制裁を加えたくて裁く、ということではなく、社会正義を守ったり、弱者が安心して暮らせる共同体を守っていくために、どうしても裁く、ということが必要になる場面があるのだ、と思います。難しいですね。
昨日は礼拝後に、神学校紹介と神学生の証しがありました。短い時間でしたが、神学校への愛にあふれた紹介が心を打ちました。また証しでは、若い魂の学びの豊かさと、神さまによるお取り扱いの豊かさ、また将来に向かっての決意を伺いました。続いて祈っていきたいと思います。
午後は、女性会のもみじ狩りの運転手として特別参加をしました。好天に恵まれ、もみじ狩りというよりも、アウトドア体験(カヌー体験)といった方が当たっているような感じでしたが、大変貴重な経験をさせていただきました。八幡掘りに浮かぶカヌーから見上げるように紅葉の始まった木々をめでながら、道行く観光客から手を振っていただいたり・・・。コロナ禍でしばらくぶりのお出かけでした。感謝します。