静まりの時 申命記14・22~29
日付:2023年11月06日(月)
「あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。」
(22-23)
十分の一を献げることの目的の一つは、主を恐れる(畏れる)こと、を学ぶためです。自分が生きるために取得したものは、実は神さまが与えて下さったものなのだ、と学ぶこと。それが目的なのです。
「もしあなたの神、主が御名を置くために選ばれる場所が遠くて、あなたの神、主に祝福していただくために運んで行くことができないほど、道のりが長いなら、あなたはそれを金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行きなさい。」
(24-25)
貨幣経済が、現代のような状況ではない社会だったと思いますが、それでも、持ち運びが難しい場合に、それを貨幣に変えて持っていきなさい、といいます。
「あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。」
(26)
23節にもありましたが、この献げものの献げ方は少し意外な感じがします。献げられたものを、神さまの御前で、共に生きる人たちといっしょに食べなさい、食卓を囲みなさい、そしてともに喜び楽しみなさい、というのです。それが、この献げものの献げ方でした。
「あなたの町囲みの中にいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼は、あなたと同じようには相続地を割り当てられないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みの中に置いておかなければならない。そうすれば、あなたと同じようには相続地を割り当てられないレビ人や、あなたの町囲みの中にいる寄留者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるであろう。それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」
(27-29)
十分の一を献げることの目的のもう一つは、主があなたのすべての手のわざ、すなわち生業(なりわい)としているものが祝福されるためである、といいます。献げ物をするということは、自分の収入の中から支出するということですから、財産が減少します。しかしそれによって、仕事が祝福されるのだ、というのです。
これはいわゆる宗教団体にとっての都合のよい教え、というようなことではありません。
献げられたものは、町囲みの中(町の中)に置きます。それらは、相続地を割り当てられていないレビ人や、寄留者、孤児、やもめ、という人たち、すなわち世俗の仕事に従事していないがために収入のない者や社会的な弱者という人たちのために献げられるのです。公的扶助を目的とした保険や税のような感じがします。
このような互いの助け合いは、社会全体を誰もが安心して暮らすことのできる場所としていくでしょう。古代社会においては、かなり先進的な制度ではないかと想像します。こうして作られた安心して暮らせる社会においては、結果、産業を安定させ、教育を整え、より幸福な社会を前進させるのだと思います。そうしてまわりまわって、そのような社会に生きる人びとの手のわざを祝福するのだと思います。情けは人のためならず、ということでしょうか。
勝ち組負け組、自己責任、などという言葉が飛び交う社会は、ますます不安が増え、結局、それぞれの幸せが構築されない、という結果をもたらす可能性があるのだ、と思います。
ある南の島では、その日収獲された海の幸は、みんなで食するのだそうです。舟を出し危険を冒して漁に出た人は、その収獲物を独り占めしません。逆に島にいて島を守っていた人はもちろんでしょうが、何もしなかった高齢者、子ども、病者、さまざまなハンディを負う者は、自己を卑下することなく喜びをもって感謝をもって、漁に出た人の持ち帰ったものをいただきます。神さまが与えて下さったものであることを皆が学んでいるからでしょうか。漁に出たのはたまたまその人であっただけで、神さまはその人を通して島全体を祝福してくださったと、皆が了解している社会なのかもしれません。
「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。」
(使徒4・32~34)