静まりの時 レビ記19・9~10
日付:2023年11月07日(火)
「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。」(9)
パリ、オルセー美術館に所蔵されるミレーの『落穂拾い』には、婦人たちが、借り入れの終わった畑で、落穂を拾う風景が描かれています。のどかな風景がですが、そこには貧しさに耐え生き抜こうとする人たちのいのちが描かれています。
神さまは、土地の所有者に「畑の隅々まで刈り尽くしてはならない」と語られました。収穫をする労働者たちの心に、貧しい者や寄留者への思いやりを持たせようと神さまはなさいます。
「また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(10)
麦畑だけでなく、ぶどう畑においても、同様の命令がなされます。こうして麦とぶどうの実は、すべての人に分かち合われます。今日、麦でできたパンと、ぶどうの実でできたぶどう酒は、聖餐において、主にあるすべての人と分かち合うように招かれています。
聖餐の祈りの一つに以下のような祈りがあります。
「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。」
「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。」
聖餐において、すべての人と分かち合う、という心が強調され過ぎると、聖餐が愛さんとごっちゃになってしまうので、過ぎることはよくありませんが、聖餐のたびに、交わりの意味が強調されること、を思いめぐらすためには大切なことではないかと思います。
さて、貧しい人、寄留者への援助という意味で、畑を隅々にまで刈り取らない、ぶどうの実も落ちたものはそのままにしておく、ということですが、それならば、収穫自体はきちんとして、その中から貧しい人や寄留者に分け与えてもよいようなものです。しかし神さまは、そうは言われませんでした。麦やぶどうの実を単純に残すように言われたのではなく、貧しい人や寄留者に収穫すること、すなわち労働そのものを分かち合うように言われたのです。貧しい人たちや寄留者は単純に、いただく、ということではなく、自分のからだをつかって、自分の手で、収穫する、という機会を与えられました。
誰か愛する人に、贈り物をする、ということは、少し気をつかうものです。誰だったか、愛のない贈り物は、その人を傷つける、と言いました。自尊心を奪うのです。上から下への物質の移動によって、上から下への支配が生まれ、上の者に少し優越感が生まれる、下の者は極端に言うと否定されるということが起こるということでしょう。日本人は、贈り物をするときに、謙譲の心を持つようにします。つまらないものですが、などと言いながら渡すのです。つまらないものならいらないなどとは誰も言いません。本当にはつまらないものではないことが、お互いに了解されているからです。しかしそれ以上に、そこに愛を込めようとします。上から下への物質の移動ということをできるだけなくそうとするのではないか、と思います。
贈り物にはリボンをつけて、楽しい絵柄や、袱紗、いろいろと装飾をして、単なる物質だったものを「贈り物」としてお渡しするということをします。ほんの気持ちです、とか、気持ちだけですが、などといいます。心を贈ろうとしてるのです。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」(第一ヨハネ3・16)
教会の庭のざくろの木が実りました。