静まりの時 ローマ13・8~10
日付:2023年11月04日(土)
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。」(8)
借りがある、負債がある、借金がある、ということは、それらに縛られる人生となりますので、不自由です。自由に生きようとすれば、何の借りもない人生がよいでしょう。もし何らかの借りがあるならば、できだけ早期に返済することが、自由に生きる道を築きます。
しかし、互いに愛し合うこと、においては別である、といいます。つまり互いに愛するということにおいては、借りている状態が永遠に続く、というのでしょう。
愛するということにおいては、これで返済完了、ということはないということです。あなたへの愛はこれで完済しましたので、これからは愛することはしません、などということはないのです。それならば、その愛は、愛ではありません。帳面消しです。
パウロはこのローマ人への手紙の冒頭で次のように語りました。
「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」(1・14,15)
パウロは、すべての人に負い目を負っている、つまり借りがある、といいます。それで、福音を伝えたい、福音を伝える、というのです。福音を伝えるということは愛するということです。パウロが、なぜ愛に生きようとするのか。それは、借財を返済していることなのだ、これには終わりがない、生きている限り常に抱えていることだ、というのです。
「他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない』という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです。(8b、9)
当時ユダヤでは613の戒めがあったそうですが、結局のところ、「あなたの隣人を自分自身のように愛する」ということで、そのすべてが全うされることになる、とパウロは言いました。これはイエスさまご自身が言われたお言葉です(マタイ19・19ほか)。
律法に生きる、あるいは聖書のお言葉に生きようとするときに、その根底に、あるいは指針として、隣人を愛する、ということがあるかどうか、が問われるのだと思います。確かに聖書的に生きているように見えるが、ちっとも隣人を愛していることになっていない、ということであれば、それは聖書のお言葉に生きているとは言えない、ということでしょう。
「あなたの隣人」とはいったい誰であるのか。イエスさまはルカの福音書10章29節以降で、ユダヤ人にとってのサマリヤ人である、と言われました。自分と共通している部分を持ち、比較的愛しやすい条件の整っている関係にある人のことではなく、むしろ敵対しているような関係の中にある人。それこそ、あなたの隣人、なのだ、と言われました。そうすると、この愛は、感情の問題ではない、ということになります。意志の問題なのだと思います。それは、どこか自分を後回しにする、自分の主張を捨てる、自分を捨てる、ということです。
自分自身のように愛するとは、だれでも自分のことはかわいいものです、そのように愛しなさい、ということかもしれません。自分を愛する、大切にする、ということが分かっていないと、隣人を愛することは分からないのです。
しかし「自分を愛する」などと言うことが、私たちは本当に分かっているのでしょうか。せいぜい甘やかすことは出来るかもしれませんが、本当の意味で自分を大切にするということが出来ているのだろうか。やはりこれも、神さまにお出会いし、神さまがどんなに私を愛していてくださるのかを知ることによってのみ、できることではないか、と思います。
神さまへの愛、自分への正しい愛、そして隣人への愛。この三つはいつも深く結びついています。
「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」(10)
愛は隣人に対して善を行う、ではなく、悪を行わない、とパウロは語りました。同じことですが、この表現に、パウロのいう愛というものの柔らかさ、というか、美しさが現れているように思います。
愛する、という言動が人を傷つけることがあります。良かれと思ってのことだと思いますが、押しつけがましく、結局その人を支配する、というか、コントロールすることになってしまう。竹森先生は、この聖書の個所の講解説教の最後に次のように語っておられました。
「他の人を愛するというのは、何かをその人のためにしてあげることでしょうか。どうかすると、われわれも、ひとを愛すると言って、その人に好意の押し売りをすることが多いのではないでしょうか。その人を自分の思うままにしたいと思うのではないでしょうか。もしかしたら、最も大切なことは、その人の自由を守り、立場を重んじ、尊敬し、害を加えないようにすることで、それが、真に愛するということであるかもしれないではありませんか。」
(竹森満佐一、『ローマ書講解説教 3』、新教出版社、1972年、241頁)
隣人に対して悪を行わない。少なからず消極的に思える言葉です。しかし、だからこそ、愛は律法を全うするものなのです。
昨日の団体主催のキリシタン史跡巡りは、好天に恵まれ楽しく開催されたとのことでした。山登りということでしたので、私は参加しませんでしたが、やはり、山登りのことばどおりのハイキングだったそうです。現地では、リーダの牧師から内藤ジョアンのお話があったとのこと。お忙しい中、ご準備ご苦労さまでした。帰宅後、妻は、以前に訪れたフィリピンの十字架のモニュメントの写真を探し出し、今回八木城の前にあったモニュメントと比べて、全く同じデザインだったことを明らかにしていました。