静まりの時 ヨハネ14・1~6
日付:2023年11月03日(金)
1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
(1~4)
主にある者は、いついかなる時も心を騒がせないでよいのです。ただ神さまを信じ、イエスさまを信じていればよい、イエスさまに信頼していればよいのです。
なぜなら、イエスさまの父であるまことの神さまの家には住む所がたくさんあるからです。神さまの家とは天国のことです。しかしそれだけではありません。神さまのご支配されるところ、神さまの愛と平安のところ、安心して過ごせるところ、そのような場所がたくさんある、と言われるのです。
そうでなかったら。つまりもしそのような場所がないとするならば、あなたがたのため、すなわち主にある者たちのために、イエスさまはそのような場所を用意しに行く、と主は語ってくださいました。
ここで「言ったでしょうか」という疑問文になっていますので少しわかりにくいのですが・・・。日ごろからイエスさまは、弟子たちに対して、わたしは場所を備えに行く、と言っておられたのですね。そのように普段から言っておられたので、ここで、もし場所がなかったとしても備えにはいかない、ということであれば、普段からあんな風に言ってきたわけがない、という意味だと思います。とにかく、必ず場所を備える、と語ってくださったのです。
神さまが豊かにご支配される愛と平安の場所は、イエスさまが、その一方的な愛によって備えてくださいます。「ない」ということは絶対にないのです。
さらにその場所にイエスさまご自身が、迎えてくださる、と語ってくださいました。私たちは迎えられるのです。私たちが行く、ということも事実かもしれません。しかし行ったところで迎え入れていただかなければ、入ることは出来ないでしょう。神さまの愛と平安の中に、イエスさまご自身が迎えてくださるのです。
訪ねることになっている誰かの家の前に立った時、固く門が閉ざされ、チャイムを鳴らしても応答がない、というのは不安なものでしょう。しかしその家に着くまえから、すでに遠くから手を振って、笑顔で迎えようとしていてくださる方がおられる。私たちの内には到着するまえから喜びと平安が生まれます。到着したならば、よく来たね、外は寒かったでしょう、さあ、どうぞお入りください、あたたかいお茶とお菓子を用意しました、重たい荷物を降ろして、いつまでも続く憩いの時を味わってください、さあ、どうぞ。とイエスさまは私たちを迎え入れてくださるのです。
迎え入れてくださる目的は、わたしのいるところ、すなわちイエスさまのおられるところに、私たちもいるようにするためだ、と言われました。イエスさまのそば近くにともにいる、それが目的である、というのです。
この世では、人をまるで道具のように扱う場面があるかもしれません。ともにいる、ということも、目的を果たすための手段なのです。しかしイエスさまはそのようにはおっしゃいませんでした。「ともにいる」ということそのものが、目的、なのです。イエスさまは、あなたとともにいたい、と願っていてくださる。何もできなくても、むしろともにいることが、多くの人にとって、また自分でさえも厄介で愛想をつかしてしまいそうなことである「私」と、イエスさまは、あなたと一緒にいたい、と語ってくださるのです。
世界のすべてが敵に思えて、ひとりぽつんと座っているような、そんな気持ちになることがあるかもしれません。しかしそんなときも、イエスさまは隣に座ろうとしてくださるのです。だれが離れても、わたしはあなたと一緒にいたいのだ、とイエスさまは言ってくださいます。
「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(4)
私たちは、ほんとうは、イエスさまが行かれる道を知らないのかもしれません。イエスさまが十字架に向かわれるのを弟子たちが、本当の意味では知らなかったように。しかし、そんな私たちに向かって、いえいえ、あなたは知っているよ、と語ってくださいます。そんなことはありません、私は知らないのです、と言いたいのですが、イエスさまは、いやいやあなたは知っている、なぜなら、あなたを造ったのはわたしだ、あなたが、自分では知らないと言うが、あなたは自分自身の何を知っているのだ、あなたを造ったのはわたしなのだから、あなたのことはあなた以上に、わたしが知っているよ、とイエスさまは言われるのです。
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(5~6)
トマスは正直な人です。自分が知らない、ということを主に告白します。やがて主が復活された時もそうです(ヨハネ20・24~)。そしてここではどうしたら知ることができるのか、とイエスさまに問います。
イエスさまは答えて下さいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」。トマスの問いは、この大切な主のお言葉を引き出しました。
イエスさまが、道である、真理である、いのちである、このお方を通してでなければ、だれも父のみもとには行けない、神さまの愛と平安の場所に行くことが出来ない、ということ。それはすなわち、イエスさまさえ信じていればよいということでしょう。
私の普段持つキーホルダーにはたくさんの鍵がついています。牧師館の玄関の鍵、教会の玄関、裏口、事務室、牧師室の鍵、自転車の鍵、などなど。いまはもう慣れましたが、毎回ドアの前に立ってじゃらじゃらと鍵を探します。もし一つの鍵ですべての扉が開くとすれば、便利だろうな、と思います。マスターキーのようなものですね。
天国への鍵、愛と平安の場所の扉の鍵、人生の幸福の鍵が、あちらこちらにたくさんあったとしたらどうでしょう。聖書は、イエスさまという鍵、それこそマスターキーがある、というのです。なんと幸いなことでしょう。
今日は団体の行事「キリシタン史跡巡り パート4」が行われます。八木所跡にハイキングです。軽い山登りということで、思案したのですが、医者の言葉もあり私はやめておくことにしました。妻ははりきって参加します(笑)。季節外れの温かさで秋晴れの予報です。善い交わりの時となりますように。