静まりの時 マタイ16・13~20
日付:2023年11月02日(木)
「さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに『人々は人の子をだれだと言っていますか』とお尋ねになった。彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」(13-16)
「ピリポ・カイサリア」。カイサリア(カエサル)、すなわち皇帝の名を冠した地方に行かれた時に、イエスさまは弟子たちの問われます。安全地帯においてではなく、少なからず戦いが予想されるところにおいて主は問われます。あなたはイエスをだれだというのか。信仰告白はひとつの戦いです。
戦いには、外からのものと内からのものとがあります。
信仰の反対されている家族の中において、イエスさまを告白して生きる、ということは戦いです。また、人生の否定的な出来事の中にあってもなお主を告白する、神さまを信じるということも大きな闘いでしょう。あらゆる場面において、あなたはイエスさまを神とするか、と私たちは問われます。ペテロのように「あなたは生ける神の子キリストです」と告白し続けたいと思います。
「すると、イエスは彼に答えられた。『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。』」(17)
信仰の告白をしたペテロにイエスさまは言われました。あなたの告白は、「血肉」によるものではなく、「天におられるわたしの父」である、と。つまり、ペテロという人間の敬虔さや力によって告白したのではない、神さまがそのようにしてくださったのだ、導いてくださったのだ、と言われました。そしてそこにこそ幸いがあると言われました。
信仰生活の幸いは、ここに一つの焦点があると思います。私の信仰は、私という一人の独立した人格が告白しているのですが、それをも神さまはその御手の中に置いてくださっている、支えていてくださっているのです。まことに幸いな信仰です。
「『そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。』」
(18,19)
「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰の告白をしたペテロの上に、イエスさまは教会を建てる、と約束されました。すべての教会はこの信仰の告白の上に建てられます。そしてその信仰の告白を、神さまが支えていてくださるのですから、結局、神さまご自身が教会を建ててくださるのです。
教会が建てる、というと建物のことを考えてしまいますが、教会は建物のことではありません。建物がどのようなものであっても、個人の家の中でも、町の集会所であっても、あるいは建物がなく広場であっても、そこに、イエスさまへの信仰の告白をなす者が集るならば、そこが教会なのです。教会と訳されている言葉は、ギリシャ語のエクレシアです。「エック」は「~から」、「カレオー」は「呼ぶ」。エックカレオー、エックレシア、エクレシア、ということで、召された者の集まり、という意味です。召団と訳している群れもあります。教会というと、教える会、と書きますので、何やら教えるところ、学校のようなところと考えがちですが、信仰の告白をする者たちの群れのことなのです。
しかしそれは教会堂という建物はどうでもよいことなのか、というとそうでもありません。人間は精神で生きているだけではなく、体と心で生きています。それと同じように、具体的な建物がまた大切なのです。ですから教会は建物のことです、ということも上記のことを踏まえるならばあながち間違っていることでもないのかもしれません。
イエスさまはこの教会は、「よみの門」すなわち地獄の門もそれに打ち勝つことはできない、と言われました。ある訳では黄泉の「力」と訳されていますが、言語では門です。
地獄の門、死への入り口、それは滅びの入り口であり、人間はみなそれに吸い込まれるように、まっしぐらに生きています。例外はありません。ある人は天国に、ある人は地獄にということではありません。みなよみの門に向かっているのです。だれもそれにあらがうことが出来なかったのです。しかしここにもうその門が勝つことはない、と言われました。ある先生は、マイナスがプラスに変わることである、と言われます。私たちはみなマイナスがついているのです。しかしイエスさまの十字架によって、そこに大きなマイナスがつくことで、マイナスとマイナスでプラスに代わる。どのような存在でも、十字架によってプラスに変えられる、というのです。(もともと自分のことをプラスだと思っている人は、イエスさまとの出会いによってマイナスになるかもしれません(笑))
教会は、イエスさまから天国の鍵を与えていただきました。
当時、律法学者たちによって、そういうことはしてはいけない、と禁じることを「つなぐ」、逆に、してもよい、もうその戒めに縛られることはない、ということを「解く」といったそうです。それを考えると、教会は罪を赦したり、逆に断罪したりする裁判所のようなところと理解してしまいますが、そうではないと思います。
教会はこの鍵によって、天国の扉を開くのだと思います。それは、罪に縛られている人を解き放つことです。罪に縛られていては、地獄に吸い込まれていまします。しかし教会は罪から解き放つ鍵をいただいています。この地上において唯一罪の赦しを語るところ。それが教会です。あなたも赦されました、あなたにも救いがやって来ました、もう罪に縛られる必要はないですよ、と語り続けるところが教会なのです。
「そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。」(20)
謎の言葉です。しかし福音書の随所に出てくる言葉です。
イエスさまがキリストである、ということを宣伝すると物議を醸しだす、十字架の時はまだ来ていないので、今は黙っていよ、との意味であると理解することもできるかもしれません。
だれにも言わない、つまり黙る、ということはどういうことでしょう。素晴らしい信仰の真理を知ったならば誰かに話したくなるのが人情です。しかし黙っている、黙している、自分の心の中にそっとしまい込んでおく。それがどのようなことを私のうちに起こすのか。
詩篇46編10節(11節)に以下の聖句があります。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」
他の訳では
「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
(新共同訳)
「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。」
(共同訳2018)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全知にあがめられる。」
(口語訳)
この口語訳はいい訳だと思います。イエスさまこそ生けるまことの神である、ということを真実に知る道は、静まることによって生まれる、あるいは熟成されるのです。誰にも話さない、ということでこそ、イエスさまが生けるまことの神であることを深く味わい知るのだと思います。
「世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である。」(アントニ・ガウディ)
昔はアントニオ、といっていたような気がしますが、いまは アントニ、ですね。ガウディの言葉として有名なのだと思います。神さまはすべてを創造され、人類ができることはそれを発見することである、ということでしょう。私が創造した、などというのは僭越というか、なんというか。
この発見するということは、実に楽しいことなのです。学生時代に、課題として一本の木の前に何時間も座ってスケッチをする、ということがありました。見ることによって描くのですが、描くことによって見るということがより深くなっていく、という経験をします。
「人が何かのものを描くのはそのものを見るためだ」(ロビン・G・コリングウッド)
より深く見るために、より深く知るために、沈黙は大切なことです。