あなたこそ、私の賛美だからです

静まりの時 エレミヤ17・14~18
日付:2023年09月09日(土)

「私を癒やしてください、主よ。
 そうすれば、私は癒やされます。
 私をお救いください。
 そうすれば、私は救われます。
 あなたこそ、私の賛美だからです。(14)

 「エレミヤの嘆き」と表題がついています。エレミヤは、癒してほしい、救ってほしいと主に祈ります。エレミヤは、自らのうちに癒されなければならないこと、救われなければならないことがあることを知っていました。そしてまことに癒すことができ、救うことができるのは、主だけであることを知っています。
 自分のうちに癒されなければならないことがある、そしてそれを真実に癒すことができるのは、神さまだけである、そのことを知っている、そして知っているだけでなく、それを祈りとしている、ということです。

 自分のうちに癒されなければならないことがある、ことを知っていることは大切なことです。これが分かっていないと癒される道に進むことができません。自分が病んでいること、傷ついていること、改善されなければならないものを抱えていること、そういう自分であることを、自分自身が認識できていないと、癒しを求めることができないのです。
 自分の人生を振り返りつつ、どこで傷ついてしまったか、それが今の私にどのような影響を与えているのか、を静かに思いめぐらします。

 自分の傷を正面から見つめることは、ときに難しいものです。目をそらそうとします。また様々な理由をつけながら、解釈しながらでないと見つめられません。しかしできれば解釈や言い訳をせずに、ありのままに、そのままに見つめてみます。

 その傷を、主は癒すことができます。主だけが癒すことができるのです。ですから、安心して、ありのままに、主の御手に委ねます。主が触れてくださるままに、主の御手の中に捧げます。

「あなたこそ、私の賛美だからです」。

 主が私の賛美である、とはいったいどういうことでしょう。フランシスコ会訳では「まことに、あなたこそわたしがほめたたえる方」。
 私の傷が癒される、ということと、神さまこそ私がほめたたえるお方である、ということ。この二つは結びついています。
 神さまこそ私がほめたたえるお方である、私の賛美である、ということは、神さま以外のものは、ほめたたえない、賛美することをしない、ということです。それが、私が癒されていく、救われていくということを生み出すのです。
 神さま以外のもの。その最大のものは、自分自身です。自分をほめたたえる、自分を賛美する、そうしているうちは自分のなかにある傷が癒されることはありません。自分から目を離して、神さまを見上げます。神さまこそ癒してくださるお方であることを信じます。

 傷ついた自分には、その傷を癒してくださる神さまが必要なのですが、しかしそれは傷がなければ神さまは必要ではない、ということではありません。人間はすべて罪びとである、ということは、人間はみな大なり小なりの傷を抱えて生きているということです。神さまとの関係が壊れてしまった中にあるのは、私が傷ついている、ということなのです。

 神さまはすべての人が健やかに生きることを願っておられます。それは神さまとの関係が正しくされる、回復されることによって実現します。神さまが私を愛していてくださる、ということは変わらない真実です。そのことを、私が受け入れることによって、癒しの道が始まります。また前進します。日々神さまの愛の中に生かされていることに自らの全てをゆだねます。それは自分の人生を受け入れること、肯定することでもあります。
 自己肯定感は、神さまによって生まれ形づくられます。神さまを賛美するところに生まれます。自分を賛美していては生まれません。生まれたとしても、つねに自らを肯定する材料を探し続けなければなりません。神さまは無限の愛をお持ちのお方です。この神さまに肯定されている、ということが、私の肯定感の土台ですから、揺るがされることがありません。肯定感の源泉は尽きることがないのです。神さまは、十字架に架かるほどの愛で、私を愛していてい下さいます。それは私が愛するに値する何かを持っているからでも、立派なことができるからでもありません。神さまはただ愛していてくださるのです。それが神さまのありようだからです。私の状況がどんなに変化しても、神さまの愛は変わりません。

「あなたこそ、私の誉れだからです」〔共同訳2018)。