静まりの時 民数記17・1~5
日付:2023年09月08日(金)
「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」(5)
イスラエルの民はモーセとアロンに対して不平を言います(たとえば16章1~3節)。神さまはその不平を鎮めるために不思議な方法をとられました。それぞれの部族の指導者が杖を取り、それに名前を記します。レビの杖にはアロンの名前を記します。神さまが選んだ者の杖は芽を出す、というのです。果たしてアロンの杖が芽吹き、つぼみをつけ、花を咲かせ、アーモンドの実を結びました。
主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」(10)
神さまは、そのアロンの杖を見ることによって、自分たちの不平を鎮めるように、自分たちの不平によって自らが死んでしまうことのないように、と民を導かれました。
民はいろいろなことでモーセとアロンに不平を言いました。それを鎮めるために神さまがなさったことは、アロンは神さまが選んだ存在である、ということを確かにされたということでしょう。それは秩序を明らかにされた、ということではないかと思います。
人間が10人いれば10通りの意見があるでしょう。共に生きるということを考えないのであれば、それぞれが好き勝手に自分の思うことを語り行動していればいいのかもしれません。しかし共に生きようとするならば、さらにはこのイスラエルのように、約束の地に行くために共に旅をしているならば、秩序が必要である、ということでしょう。
自由な時代を迎えています。個人の自由が尊重されることは大切なことです。不満があるときにはそれを申し出ることも大切なことでしょう。しかし個人の自由は、個人の願望の放縦を生み、教会ではたびたび混乱が起こりました。第一コリント書を読むと初代教会も例外ではありませんでした。教会はその都度神さまの秩序を確認し平和を取り戻そうとしました。私たちが信じる神さまは秩序を大切にされる方なのです。
「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」(第一コリント14・33)
共同訳2018では「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(同)
秩序が失われると平和が失われます。平和を取り戻すためには秩序を取り戻すことが大切です。
今日このアロンの杖にあたるものとして想像が許されるとすれば、イエスさまの十字架ではないでしょうか。私たちはイエスさまの十字架を見上げ、そこに語られた神さまの御心を教えられます。十字架による新しい秩序、といってもよいかもしれません。この世の考え方を超えた十字架による新しい秩序によって教会は平和のなかに前進します。
民数記の16章と17章は、翻訳聖書によってその節に違いがあります。新改訳の16章36~50節は、共同訳では17章1~15節となっています。